女と男と山本譲二

あったあったありました。

マルクス主義との論争に代わって、今や、私は緑の党との論争が始まっています。最近『社会学雑誌 Zeitschrift fuer Soziologie』の最近の号にフェミニズムについての論文を私は発表しました。「女と男とジョージ・スペンサー・ブラウン」と題しました。(笑)極端なテーマを扱うとき、私にも皮肉を押さえることができないことがあるのです。そして当然のことながら、他の立場からすれば、これは許しがたいことなのでしょう。緑の党は、私の『エコロジー的コミュニケイション』について書評をしています。例えばアルタナティフの新聞である『Taz(Tageszeitung)』には長文の批評がでました。そして私の論文も掲載するようになりました。それは彼らにとって初めてのことです。もともと、それはイタリアの新聞のために書いた六八年運動に関する文章だったのです。ただ、そこで編集部内に議論が生じ、進歩的な、オッフェのような聡明な人々のグループと、もし誰かが私の作品を真面目に受け入れたりするとアイデンティティの問題が生じてしまうようなグループとの間で議論がありました。『Taz』紙上に私の『社会システム』という本の書評が出たときに、抗議を寄せた読者もいたのです。その抗議の内容は、私、つまりルーマンごときの書物のために、あんな大きなスペースを割くのは「政治オンチ instinktlos」だということでした。しかしそうこうする間にも、フランクフルトには、私の研究を真面目に論ずる小さなグループも出てきたのです。そこでは、私の全理論体系を承認する訳ではないが、しかし少なくとも論ずるに値するものとして評価するという立場を取っています。例えば、ハーバーマスのように、システム理論の一部を自分の固有の理論体系に組み込んだり、ホネット等の若手のようにそれを「誤り」として批判したりする人々がそれです。それは、ハーバーマスの「知的純粋性」を維持するために、そしてシステム理論を理論に組み込むことによって彼独自の理念が裏切られてしまったりすることを避けるためにも、さらにはロイヤリテェートや「左」「右」の政治的区分のためにも、若手から批判が出ている訳です。しかしいずれにせよ、私の理論を保守的なものとして評価する議論は、少なくともドイツでは、ほぼ一掃されてしまいました。勿論、その残滓は残ってはいますけれど……。私の独特の概念的徹底性は、当然ながら、そこから生じて来る政治的帰結については、全くオープンなものだからです。

これ英訳とかないんだろうなあ。

これですが。

Luhmann, Niklas (1988): "Frauen, Maenner und George Spencer Brown [kommentiert (ST)]", in: Zeitschrift fuer Soziologie 17 (1), 47-71.