さて、上記の訳がそれほど間違っていないと仮定すると、

自己意識は、主体としての自己と、客体としての自己の同一性において成り立っています。
(略)
この点において、私とあなた(hidex7777)〔の見解〕は一致しています。

という箇所は誤解です。自己にSub-Ob区別があるにもかかわらず、言語的に同一のものと仮定されてしまう、という仮定に対する反論、としてぼくの自己意識論は展開されています(される予定です)。
ちょうど一年前に書いたレジュメがHDから発掘されたので、一部を引用します。

・適切な記述
 ここで、本研究にとって示唆的だと思われる記述法の一事例をあげてみたい。

心がたくさんの小さなプロセスからできているという考え方を、《心の社会》と呼ぶことにする。また、心を構成する小さなプロセス一つひとつを、エージェントと呼ぶことにする。心のエージェントたちは、一つひとつをとってみれば、心とか思考をまったく必要としないような簡単なことしかできない。それなのに、こうしたエージェントたちがある特別な方法でいろいろな社会を構成すると、本当に知能にまで到達することができるのである。〔…〕
つかむことのエージェントたちはカップを持っていたい。
平衡を取ることのエージェントたちは紅茶をこぼさないようにしたい。
のどがかわいていることのエージェントたちは紅茶を飲ませたい。
動かすことのエージェントたちは口もとにカップを持っていきたい。
(Minsky 1986=1990:2-8)

 これはマーヴィン・ミンスキー『心の社会』における記述であるが、心を構成するプロセスが、いかなる超越論的な実体によっても統御されたり纏め上げられたりすることを前提とすることなく記述できている点において優れている。
 こういった想定においてはじめて、われわれが記述を試みようとしている「心的システムにおける人格の構築」の地平が開ける。当然ながらわれわれは、いわゆるデカルト・テーゼ《我思う、ゆえに我あり》に対し、《我思う、ゆえに思いあり》を対抗テーゼとしてかかげたいわけであるが、これはつまり、心的事象が生じたからといって、それを「我」のようなゼマンティクに帰属する作法はきわめて前提に満ちたものであって、一種の飛躍であることを示唆したいのである。
デカルトの主張は、心的事象が与えられるがゆえに、仮にそれが幻覚・幻聴の類いであって内容を懐疑できるとしても、それが与えられる意識作用の主体は疑いなく存在している、というものだ。だが、むしろそのような意識作用の主体は、心的事象という述語の後から論理文法的に構成される仮象としての主語である。それはカントが超越論的統覚Xとよんだものに近いが 、心の社会という考えはこれをうまく記述している。たしかに心的事象が生じたとき、その事象以外に、その事象に対する意識も同時に生じる。この自己に対する意識をわれわれは「自己」「私」として超越論的な位置に設定してしまうのであるが、あくまでそれは仮想であり、Xである。ミンスキーの言葉でいえば、あるエージェントの活動を観察する別のエージェントがいたとしても、そのエージェント自体が別のエージェントによる観察にさらされうるのであり、メタ・レベルに位置しているわけではない(自己を意識している自己意識を意識している意識を意識している意識……と、無限に続けてみても、これらはメタ・レベルに上昇しているのではなく、いわば心的な平面上にエージェントたちがひしめき合っているにすぎない)。

長くてもうしわけないですが、「オペレーションの連鎖そのものが自己である」というid:contractioさんのツッコミはこういったことを意味しているのであろうと思います。