追記
id: Brittyさんのご教示↓
うんうん。自己意識は、主体としての自己と、客体としての自己の同一性において成立する。もし「ワタシは意識する」と誰かが云うことができるなら、そこには自身を意識する何かが在ると推定されているのだ。というのも、ふたつの自己は、ある根拠、わたしたちが自我(das Ich)とよぶものにおいて成立するのだから。このことから、「我思う」が超越論的統覚である理由も理解される。
次の点において、私とあなた(hidex7777)〔の見解〕は一致する。つまり、われわれは言葉とその文法的規則を用いて考え、そのために先のそれ(=根拠)を「自我(das Ich ワレ)」とよぶ。この呼び名は、我々の言語的慣習に由来する。
それゆえ、フィヒテは事行を超越論的自我と名づけた。自我は本来的に動詞的なもの、おのれ自身へと関係する運動なのだ。
にしたがい、≪われわれは言葉とその文法的規則を用いて考え、そのために先のそれ(=根拠)を「自我(das Ich ワレ)」とよぶ。この呼び名は、我々の言語的慣習に由来する。≫という点において、両者の見解は一致しています、と修正。