行為・人格・文法

# Britty 『我々の経験的意識は主体・客体対立に汚染されきっているのでSub.-Objekt対立という魔法の言葉が世界を説明されるのに使われるのはある意味我々の経験的思惟における癒える事のない病だと私は考えるが、あなたどう思うか。』 (2004/04/14 22:22)

# contractio 『あなたは汚れていて病気かも知れませんが私はそんなことありません。』 (2004/04/14 23:11)

# hidex7777 『経験的思惟におけるんじゃなくて、言語における文法なんじゃねーの?>Sub.-Ob.。塾で文型教えるとき、「キミは主体だ!」「キミの外側にあるのが対象objetだ!」とゆーふーに教えるよ。内心やだなーと思いながらも。だって人称って概念自体理解してくれる中高生が少ないもん。』 (2004/04/14 23:13)

# contractio 『そだね<文法』 (2004/04/14 23:16)

# contractio 『確かに私は 文法には汚れています。病気です。』 (2004/04/14 23:17)

# Britty 『経験的主観が主体性を要求すること事態が経験的思惟の倒錯だと私は考えるがあなたどう思うか。ObjektといわずにPraedikatenといえばよろしいのでは?』 (2004/04/14 23:51)

# Britty 『日本語の能力にチャレンジされている方に日本語にない文法概念を教えるのはそれは難しいでしょうな。』 (2004/04/14 23:53)

# Britty 『たんなる表象の立場がないと思いました>ひでくさ「キミの外側にあるのが対象objetだ!」』 (2004/04/14 23:54)

# Britty 『人称の教え方はヴァルドルフシューレの「わたしは××です。あなたは××です。わたしたちは××と××です」て導入が一番わかりやすくてすきだ。』 (2004/04/14 23:58)

# contractio 『いつ(どんなとき)要求するんですか? いつでも「要求」するわけじゃないでしょう? <経験的主観が主体性を要求』 (2004/04/15 00:12)

# contractio 『(だいたいあなたそんなに「主体的」なの? いつもつねにすでに?)』 (2004/04/15 00:13)

# contractio 『(少なくとも あたしはそんなに「主体的」じゃないしw。)』 (2004/04/15 00:14)

# hidex7777 『いやー経験的主観じゃなくて文法が主体性を要求してると思うあるよワタシ。>べてぃさ』 (2004/04/15 00:34)

# hidex7777 『わたし、あなた、まではわかってくれるんよ。でも、「母と私」がweになるとか(theyにしちゃう)、「私の母と兄」がtheyになるとか(weにしちゃう)、「あなたのかばん」がitになるとか(youにしちゃう)がわかってもらえない。』 (2004/04/15 00:38)

# hidex7777 『あと、「私の母」をsheにすることが、絶対にできない。「母のこと『彼女』なんていわないよ〜」とか言って。』 (2004/04/15 00:39)

# Britty 『一対一対応をもとめちゃうからそうなるんだねえ。おれ・おまえ・その他って世界観なんだよってのはだめすか?』 (2004/04/15 03:27)

# Britty 『経験的主観が自らに実体性を付与し主体としておくことによって、主体というかしょう……MS-IMEなんか大嫌いだー。』 (2004/04/15 03:29)

# Britty 『個我として自己措定された主観は定義から主体的だとおもうが、あなたとは「他」なので定義より主体的なものではありえないと思われますが、あなたどう思うか。』 (2004/04/15 03:30)

# Britty 『それはなんとも日常言語学派的なご発言で沙>ひでくさ。しかしそれは日本語は主体性を要求しないと主張を内包しているのでしょうか。説明をきぼー、します。』 (2004/04/15 03:32)

# Britty 『「あなた」がBrittyという記号化された発言者を指す限りにおいて、「あなた」は時間的存在者なのでつねに何かであることはできません。以上。』 (2004/04/15 03:33)

# hidex7777 『「あなたはどうおもう?」「xxxだとぼくは思うよ」という文にすでに主語subjectがある。「個我として措定する」という述語が(文法的に)主語を要求するから「自己措定」になってしまう。と思われる。(passive mode大好き♪)』 (2004/04/15 11:13)

# hidex7777 『日本語は主体性を要求しないとは思いません。言語使用者の反省能力によりけりだと思う。英語使う人が「主体的」かといえばそーでもないと思う。この場合の「主体的」というのは「押しが強い」程度の形容詞だと思う(笑)。「国民性」とか「県民性」は言語とそれほど強い相関はないと思われる(passive mode)』 (2004/04/15 11:20)

# Britty 『Brittyは気が弱い。すべて気が弱いものは押しが強くない。Brittyは押しが強くない→主体的ではないと思われる。くぉどえらっとでもんすとらーとぅむ。』 (2004/04/15 15:06)

# Britty 『話を戻すと、主観に実体性を付与しなければ主体性はもとめなくてすむのではないか。というわけで個我の実体性を破棄できれば主体性の概念も破棄できると思うのよし。ぎゃー。また辞書にかいちゃったよ。だめぽだ。』 (2004/04/15 17:30)

# Britty 『個我として措定されるのは、実は措定対象としての個我であってこれは客観なので主観の自己措定は反省においては客観に先立たないが本性的に先立つため自我は自己措定なのだとおもうのです。文法の問題には回収できないとおもわれ。』 (2004/04/15 17:33)

# Britty 『ていうか文法的に「私」が要求されるというより「行為が主体をもつ」という前提が主体性を要求するのではないでしょうか。教えて偉い人!』 (2004/04/15 17:35)

≪「行為が主体をもつ」という前提≫を「文法」とよんじゃいけませんかね? まあ、よばなくてもいいけど、まあようするにあれだ。斎藤慶典さんのいう「われ思うのは誰か」という「問」にぼくは取り付かれているが、それに「場だ」とか「想像力は私の能力ではなく、想像力が私を所有しているのだ」とかいった「回答」を与えるのではなく、「われわれはこういうコンティンジェントな前提をほとんどアプリオリなものとして生活しているよね」といった「記述」をしようとするところが社会学者の業なのだ。

それから某MLで、行為タームは行為者を前提としてしまいそうで危ういので、コミュニケーション・タームのほうがうまくいきませんかね? なる議論を一人芝居のごとく延々やっているわけだが、それはあれだ。ルーマン屋としてアイデンティファイしようとする自己措定ってやつなのかもね。

[追記]

# hidex7777 『「自己意識が端的に人格的なものかどうかは疑問」という点にぼくは同意しません。「意識」は人格的ではないけど「自己」とついているからには帰属先(自己)を前提としているように思われます。帰属しないのが解離性人格障害では?』 (2004/04/16 00:31)

# Britty 『自己が人格的なものとしておかれる根拠をきぼんぬ。自己意識が知的直観なら人格性は必ずしも帰せられないと思うがどうよ。アリストテレスの神概念は端的に自己意識だがあれも人格的かどうかは疑問だ。以上二点よろしこー。』 (2004/04/16 01:52)

「石意識」だったらこれは「石の意識」で、心的事象が創出したときにこれを(他のなにものでもなく)石に帰属しているわけですよね。
「ポチ意識」だったらこれは「ポチの意識」で、心的事象が創出したときにこれを(他のなにものでもなく)ポチに帰属しているわけですよね。
「自己意識」だったらこれは「自己の意識」で、心的事象が創出したときにこれを(他のなにものでもなく)自己に帰属しているわけですよね。
で、この帰属の宛先を人格とよぶわけですよね。カントであればこの宛先を超越論的統覚Ⅹというわけですが、Ⅹだとクロスする部分に「ひとつの」点ができてしまうので(主体の中心化!)よくない、とぼくは思う(超越論的統覚OとかならOK(笑))。
アリストテレスの神概念が自己意識である典拠きぼんぬ。