ベンヤミン区別

純化をおそれずにいえば、類型化(そこではA・Bという事物のあり方とは無関係に、類型が無時間的に観察される)において二項を結ぶ「と」は、A・Bを分別する意味的基準にに遅れてやってくるのに対して、「区別」においては逆に、「と」が自己適用される過程のなかで「A」「B」の境界の方が遡及的に構成されていくのである(こうした「と」をめぐる考察は、馬場靖雄ルーマン解釈に多くを負っている)。

ここでぎょだいさんは<ゲゼルシャフトゲマインシャフト>の「類型化」を「区別」と区別しているわけですが、ぼくは<ゲマイン/ゲゼル>も区別だと思う、し、区別とは区別される区別はないと思う。そこで例によって(すんません)レポート再利用:

フロイトの結論はこうだ.「unheimlichの前綴unは抑圧の刻印である.……無気味なものとは,一度抑圧を経て,ふたたび戻ってきた『馴れ親しんだもの』である」(Freud 1919=1969: 350).
このフロイトの議論は初期デリダのいう代補supplementの論理に正確に対応する.形而上学は同一性が現前すると考える.だがこの第一項としての同一性は,第二項の否定によって担保される.つまり第一項はそれが存在するために第二項をあらかじめ必要とするのであり,(同一性ではなく)差異/差延が先行している.第二項は第一項が成立するために投射projet的棄却abjection が行われる否定の場・ゴミ捨て場であり,したがってこの二項関係ヒエラルキー化される.代補は差異無き現前に外部から付け加わってくるのではない.代補の論理によれば「外部は内部であり……欠損は内部の外部としてすでに内部の内部に存在する」(Derrida 1967=1972: 141).
さらに代補の論理はルーマン理論の根幹ともなっている.ルーマン理論の主導的差異が〈システム/環境〉差異であることはよく知られているが,この差異自体,差異化する〈区別〉distinctionを先行するものとして持つ.したがってルーマン理論のすべての出発点は〈区別〉にかかわっていると断言してよい.この〈区別〉は,〈観察〉Beobachtung/observingの一つのアスペクトである.「観察とは,ある区別を用いて,区別を構成する二項のうちの一方を(したがって他方ではなく)指し示すことである」(Luhmann 1987=1993: 113).こうして,観察の作動operationによる世界の構成が,社会学の観察対象になる.

毎日自分のハードディスクからゴミ拾いをしているのは、誰かから突っ込まれたいからなのですが(そうじゃないと自分のどの辺がボケているのかわからないという恐ろしい状況にさらされることになる)、今日もこうして自分のバカを世界発信なわけでございます。