健康増進法に抗して

千代田区の条例、健康増進法などに結晶化した嫌煙活動団体の圧力(というよりも憎悪のかたまり)によってますます肩身の狭い思いを強いられてきているわれわれ喫煙家は、その連帯意識に微妙な反省性を導入し始めている。いままで喫煙仲間としてピースフルな友愛関係にあった名も知らないあのおじさんも、じつはそのメンタリティにおいて嫌煙家たちとそれほど変わらないのではないか、そのような疑いが生じる余地が生まれているのだ。

いま、「余地」といったが、これこそリチャード・クラインが『煙草は崇高である』で述べた、煙草の存在の仕方、すなわち「指と指の間」「仕事の合間」といった「間性」として在ること、その実際の例であろう。

喫煙者擁護の側からも、すぐれた論考はいくつか出てきている。なかでも『ユリイカ』10月号(特集:煙草異論)はユリイカ史上類を見ない優れた書物になっている。

たとえば「煙草について、現在気になること、心掛けていらっしゃることがありますか。」とのアンケートに対する蓮實重彦の回答ほど知識人然とした態度は近年まれにみるものだ。

喫煙について意識的になるのを避けるために、「気になること」や「心掛けること」は持たないことにしていますが、千代田区で吸ったわけではない吸殻をわざわざ千代田区の歩道に捨ててまわるときなど、やはり何かを「心掛けている」のかも知れません。

これはかなり爽快なアクティヴィズム論として読むことができる。ぼくじしん、普段は灰皿を探すか携帯灰皿に吸殻を入れるか心掛けているが、千代田区で吸うときだけは必ず「ポイ捨て」するように心掛けてきた。しかし千代田区の外から吸殻を持ち込んで捨ててまわるなど、想像力の及ばないところであった。

しかし気になるのは、優れた諸論考が並ぶこの『ユリイカ』10月号のなかで、矢部史郎もほぼ同じ想像力を働かせている点である。

人間と街との主従関係をはっきりさせ、自分が主人であることを肝に銘じるために、街路に吸殻をまき散らす。マナーだろうがルールだろうが、改めるつもりはない。これは権利ではない、堂々と生きることは男の義務だ。往来を歩く労働者・学生・市民・旅行者のみなさんに、私は言いたい。誰の顔色もうかがうことなく、勝手にやれ。

矢部の論点で重要なのは、千代田区での吸殻まき散らしを「権利」ではなく「義務」だと言っている点である(ちなみに「男の」という修飾語がついているのは、この文の冒頭で男と車の所有=主従関係についてコメントしていて、その文脈をひっぱりつつ上記の記述がなされているからです)。

おそらく、蓮實も矢部も倫理的抵抗を、カント的な当為(ゾルレン)として感じ取っており、この「ヤバイ」状況への倫理的介入を動物的に(人間的な攻撃性に抵抗するために)作動させようとしているのだ。ぼくが気になったのは、彼らが動物的にならざるを得ないほど状況が「ヤバイ」ことになっていて、苦渋に満ちた倫理的抵抗を当為とするような、権力関係の渦にわれわれはすでに巻き込まれている、ということに、ぼくもふくめて多くの人々が気付いているかどうかすら怪しい、という点である。

というわけで、彼らばかりに負担を負わせてはいけない。ぼくたちも、明日から、いや今日から吸殻集めからはじめよう。そして、千代田区に満ちた憎悪のスパイラルを「まき散らし」の儀式で静めるのだ。