パラドックス

現代思想を読む事典 (講談社現代新書)

現代思想を読む事典 (講談社現代新書)

パラドックスは逆説、逆理、背理などといわれるが、ギリシア語で‘para’が反、逆などを意味し、‘dox’意見、臆見を意味するという語源が示すように「常識や期待に反している」ということである。パラドックスといえばゼノン(紀元前五世紀)の逆理(Zeno's Paradox)が有名で、「飛ぶ矢もつねに自身と等しい場所を占めているのでそれは運動していない」「始点から終点に向かう運動体はまず中間の点まで、ついで残った距離の中間の点まで……という具合に無限個の点を通過せねばならず、これは有限時間内では不可能なので運動はありえない」など四つのパラドックスがアリストテレスの『自然学』に記されている。

これは頭を悩ますアポリア(aporia 難題)としてさまざまの解決の試みがなされてきたパラドックスであるが、さらに矛盾、二律背反を生じるパラドックスがあり、嘘つきのパラドックスが代表的である。クレタ人であるエピメニデス(紀元前六世紀)が「クレタ人はみな嘘つきである」と述べるときにパラドックスが生じるが、これは「この文は偽である」という形式に直して分析され、もしこの言明が真であれば偽となり、偽であれば真実を語っていることになり、矛盾が生じている。このパラドックスは、言語が対象を記述しているレベルと言語が言語自身について記述しているレベルを混同することにより生じるが、このように言語と言語の外部にあるものとの関係がかかわりをもつパラドックス意味論的パラドックスとよばれる。

ラッセルが一九〇一年に発見した集合論パラドックスも矛盾を生じる。自分自身の要素になることのない普通の集合をすべて集めると一つの集合ができるが、その集合をMとするとき、もしこのMがM自身を要素とするならばMは自分自身を要素としないと定義されているのでMはMの要素ではないし、一方、MがMを要素としないとするならば定義からMはMを要素とすることになり矛盾している。ラッセルはこの集合論パラドックスを回避するため、集合に階型(type)の区別を設け、いかなる集合も要素として自分よりも低い階型の集合しか含むことができず、自分自身を要素にしてはならないという型理論を提唱した。このラッセルのパラドックスは普通、意味論的パラドックスと区別して論理的パラドックスとよばれる。

嘘つきのパラドックスの場合は文が言及している対象の中にその文自身が包摂され言及されているが、ラッセルのパラドックスでは集合が自分自身を要素としていわば自己包摂している。そこで自己言及、自己包摂が矛盾の源と考えられ、これを排除して解決を図る努力が重ねられたが、しかしゲーデルの偉大な不完全性定理の証明は自己言及的命題の構成を通じて達成された。現代思想は無矛盾性を保つためにひたすら自己言及的パラドックスを抹消しようとすることに懐疑を強めているといえる。

【参考文献】大出晃編著『科学のなかのパラドックス』〈ダイヤモンド社〉/内井惣七『うそとパラドックス』〈講談社現代新書
佐藤敬三〕


コンサイス20世紀思想事典

コンサイス20世紀思想事典

パラドックス[英]paradox

その原義によれば,〈パラドックス〉とは,一般に受け入れられている意見に反する言明のことをいう。しかし,哲学において,この語が用いられるときは,一見正しいと思われる前提と推論に従いながらも,矛盾に導かれるような事態をさす。哲学的に重要なパラドックスにおいては,前提や推論のうちのどれに誤りが含まれているかを指摘することは,困難をきわめる。哲学的探究にとって格好の出発点であるゆえんである。
→嘘つきのパラドックス,ゼノンのパラドックスラッセルのパラドックス
(飯田隆)

嘘つきのパラドックス[英]the paradox of the liar

さまざまな形で古代から伝わっているパラドックスであるが,もっとも簡単な形は,「私は嘘をついている」と言っている人は,正しいことを言っているのか,それとも誤ったことを言っているのか,という問いで示される。正しいとすれば,誤っていることになるし,誤っているとすれば正しいことになるから,矛盾が生じる。このパラドックスは,中世においてもさかんに論じられたが,現代においてこのパラドックスが復活したのは,集合論パラドックスをきっかけとしてである。しかし,嘘つきのパラドックスの原因は,集合の概念と関係するものではなく,むしろ真理や虚偽の概念にあることが,しだいに明らかとなった。このパラドックスの精密な検討を通して,A.タルスキは,対象言語とメタ言語という区別を確立して,形式化された言語に関しては真理の概念が厳密な仕方で定義できることを示した。
(飯田隆)

ゼノンのパラドックス[英]Zeno's paradoxes

一般にこの名称のもとで知られているのは,アリストテレスがその『自然学』のなかで,運動が不可能で浅ることを示すゼノンの議論として糸1介している4つの議論である。こ才らのうちでもっとも有名なのは、〈アキレスと亀〉というニックネームで知られるものであろう。足の速いアキレスと亀が競走をすることになった。ただし,アキレスは,亀の後方から,亀と同時に出発するものとする。このときアキレスは決して亀に追いつけないというのが,ゼノンの結論である。なぜならば,アキレスが亀の出発した地点に着いたときには,亀は,その間に出発点から進んでいるのだから,より前方にいるだろうし,以下,同様だからである。ゼノンのパラドックスは,微積分あるいは集合論といった数学的理論によって解決されるという意見もあるが,数学の適用可能性自体が問題となる以上,論議はまだ続行中である。
(飯田隆)

ラッセルのパラドックス[英]Russell's paradox

20世紀の初頭にB.ラッセルが発見したパラドックス。いま,自身をその要素として含まないような集合全体の集合を考え,それを「R」と名づけよう。Rは,R自身を要素とするだろうか。この問いに答えようとすると,矛盾に突き当たる。このパラドックスは,集合論の基礎にある欠陥をついたものとして,それが出現した当時,〈数学の危機〉と称されるほど深刻に受けとめられた。ラッセル自身も,このパラドックスの解決のために全力をつくし,階型理論を建設したが,広く受け入れられるようになったのは,E.ツェルメロに発する公理的集合論の体系においてである。この体系は,のちにA.フランケルによって修正を施され,現在では,ZF集合論として一般に知られている。ラッセルのパラドックスは,20世紀初頭における数学の基礎に関する研究を主導したものとして,大きな歴史的意義をもっているといえよう。
数学基礎論
(飯田隆)

メタ言語/対象言語[英]metalanguage/object language

言語について語る場合,この語る言語がメタ言語であり,語られる言語が対象言語である。言語学者が用いる文法言語も,辞書編纂者が用いる語彙記述言語も,さらに,例えばドイツ語について語るフランス語も,すべてメタ言語であると考えられる。多くの場合,メタ言語の意味は一義化されているため,自然言語について語る技術言語の姿をとっているが,メタ言語を語るメタ言語もまたメタ言語である。こうした事実は以前から,論理学や意味論の領域で考察されてはきたが,ようやくL.イェルムスレウによる厳密な分析や,R.バルトによる図式化――すなわち,あるシーニュシニフィエがもう一つのシーニュになっているという――を介して,メタ言語/対象言語の階層区分は,物語分析や記号論の領域に新たな分析装置をもたらしたということができるだろう。
→自己言及
(加賀野井秀一)