身体・統一・観察(レジュメ)

落合のまとめによれば、「狭義の近代(19世紀後半から20世紀後半)」の成立局面と衰退局面に、フェミニズムの二度の高まりは対応している。それらはいずれも「近代」をターゲットとした対抗運動であった。1stWaveにおいてそれは、産業化の過程で公/私の領域が区別され、後者が価値的に劣っているものとして扱われることへの抵抗として(その意味で1stWaveは公/私区別の維持に貢献的)表現され、2ndWaveにおいてはこの公/私区別に男/女区別が対応させられること(より具体的には性別役割分業)への抵抗として表現された。

2ndWaveの敵はしばしば家父長制と名指された。家父長制は私的領域(とくに家族、すなわち近代家族というイデオロギー的・経済的装置)における制度などではなく、社会に偏在している制度である。家父長制は男と女の身体を社会的領域に配分し・割り当て・方向付ける。したがって家父長制のターゲットは男の身体と女の身体である。

しかし報告者は、家父長制という偏在する意味的・位相的装置を丹念に記述した加藤秀一による次のような記述にさえ、違和感をおぼえてしまう。


たしかに〈性〉は、金塚が言うように、「売春における性行為と、婚姻内のそれ」とが分節化されるとともに誕生したのだし、そうでしかありえない。ここで注意しなければならないのは、これは単に道徳的な価値づけだけの問題ではないということだ。……
これは何を意味するのか。近代家族が男性=賃労働者と女性=家事労働者(主婦)とから成り立つのだとすれば、そして〈性〉が女性の「主婦」と「娼婦」への相補的分断とともに誕生したのだとすれば、〈労働〉の誕生は〈性〉の誕生の条件をなす、あるいは両者は論理的に同値であるということだ。……ここに、今われわれが知っているような「男性=賃労働者」「主婦=支払われない再生産者としての家事労働者」「娼婦=支払われる再生産者としての性的サービス労働者」という性別役割のトリアーデ」が構造化された。このとき、女は「主婦」と「娼婦」とに二分されつつ、資本制との関係においては、男性労働者の再生産者として共約すべき位置価を与えられることによって、ついに近代的な幻想としての〈女〉となったのであり、したがって、そのような〈女〉観念を特異点とする〈性〉の観念と諸実践がそこに成立しえたのである。(加藤[1995:238-9])

ここで加藤はたしかに、家父長制を観念どうしの連関として描き、観念としての〈女〉を特異点として作動する諸実践について記述している。しかし、「近代家族が男性=賃労働者と女性=家事労働者(主婦)とから成り立つ」とはなにを意味しているのか。「女は『主婦』と『娼婦』とに二分されつつ、……ついに近代的な幻想としての〈女〉となった」とはなにを言おうとしているのか。ここに概念とその対応物(意味するもの/意味されるもの)の区別が密輸入されてはいないか。

つまり、ここでの違和感はこうだ。さまざまな属性を帰属されるところの個々の肉体と、権力装置(ここでは家父長制)がそれらをターゲットとするときに操作的に用いる観念との衝突の場面が――つまり肝心なところが――カットされてはいないか・飛躍があるのではないか。「男性=賃労働者」「女性=家事労働者」と記述するときの「=」はいったいどこからやってきたのか(賃労働者である男性もいれば、そうでないものもいるし、主婦である女性もいれば、そうでない女性もいる。ここには人口統計学的権力装置の操作的概念布置と、具体的個別的場面において指し示される肉体という統一の、一気に飛び越えられた飛躍がある)。

ひとことで言えば、「女を主語にして語ること」への違和感である。むろんこれは加藤の社会的属性が男性だからではない。そのような語りを可能にする論理文法への違和感である。上記引用で加藤は「女は……近代的な幻想としての〈女〉となった」と述べる。ここで〈女〉は、諸観念を連合させる特異点としての幻想として記述されている。しかしその前提として、観念や幻想「以前」の「女」が主語になっている。ここに違和感をおぼえる。

加藤が『性現象論』で詳細に論証したように、男/女の区別は、生殖への過剰な意味づけ・価値づけがなければ存在しない区別である。かかる意味づけの装置を家父長制とよんでもよいだろう。だが、区別をほどこされるところの物質としての肉体が、いかなる権利において女とよばれるのだろうか。観念・幻想としての〈女〉は、「統一性の総合(unity syntheses)」である。法(や経済や意識や…)はそれを統一として扱う(つまり分析・分解しようと思えばいくらでもできるものを、ひとつの単位として取り扱う)。法は法がアクセスできるものにのみアクセスするので、〈女〉は法の内部に構成された現実であるが、同時に、〈女〉は法以外によっても観察される現実であるので、法にとっては「予見」である(法はあらかじめ社会にあった概念・言葉を利用する)。

だがフェミニズムはまさに、〈女〉という現実構成をおこなう観察とは水準を変えた観察だったはずではなかったか。つまり観察の観察(セカンド・オーダーの観察)が、フェミニズムがおこなおうとしたことではないのか。

2

ここで加藤秀一井上達夫の、中絶をめぐる論争を参照しよう。ここでの問題意識をより鮮明にしてそれらを読み込んだ山根純佳によるまとめを利用する。

山根の問題意識は、フェミニズムが主要な論点としてきた中絶の女性による自己決定権が、リベラリズム(法)の言語によっては所有権やプライバシー権としてみなされてしまうことへの違和感である。これはフェミニズムにとっては意図せざる帰結である。そもそもリベラリズムが前提するような「権利」、すなわち個別の権利主体による利害を守る権利を、フェミニズムは主張してきたのだろうか。このフェミニズムリベラリズムの「言語の違い」「すれ違い」を明確に見せたものとして、加藤・井上論争が参照される。加藤は、井上の立論=「堕胎の道徳性の問題を、女性の自己決定権と胎児の生命権との間の『道徳的葛藤(moral dilemma)』として捉える」「『胎児の生命権』と『女性の自己決定権』の相克という問題構成」そのものに異議を唱える。以下、経緯をみよう。

論争の第一ラウンドにおいて、井上は、「線引き論」を批判する。「線引き論」とは、「受精後胎児が一定の発達段階に達するまで堕胎が許されるが、それ以後は許されない」という立場であり、胎児は人ではないから、生命権は問題にならない、したがって「堕胎は余分な脂肪を手術で除去してもらうのと同様に、自己決定の問題である、という論法」に陥ることなく、中絶の道徳的正当化の問題を直視すべき、というのが井上の立場である。
これに対し加藤は、井上も「受精の瞬間をもって生命権の主体とする」という線引きを行なっていると批判する。さらに、かかる前提は井上の「直観」に他ならず、孕む女性の「直観」すなわち「胎児は自己の一部であるとともに他なるものであるという両義的存在として感得される」という身体感覚を無視したものであるとする。胎児と未来の世代を含む「未だ生まれざるものたち」を「われわれ(=人間)」に回収しようとすることは、途方もない暴力である。胎児という「辺境的存在者」をいかなる意味でも「われわれ」とは呼び得ない「他者」として「われわれ」の思考と情動の果てに措くという、別の倫理の可能性が提示されるべきだ――これが加藤の立場である。

これにつづく第二ラウンドで、井上は自らの立場を「葛藤論」と名づける。「葛藤論」とは女性の自己決定権の尊重と胎児の生命権の尊重の両者をともに認めるものだ。胎児の生命権を否定しない限り堕胎は正当化不能とする加藤の議論は、生命権を認めたら堕胎は許されなくなるとする「線引き論」であるとして、加藤を批判する。
これをうけ、加藤は井上が

  • 胎児は人間である「ゆえに」堕胎は正当化不可能
  • 胎児は人間ではない「ゆえに」堕胎は正当化可能

という二分法を採用していると誤解したが

  • 胎児は人間である「しかし」堕胎は正当化可能

という主張であったとし、これは「道徳的に許される殺人」が存在するという命題と等価であるとする。自らの立場は

  • 胎児は人間ではない「しかし」堕胎は正当化不可能

というものに近いという。自らの立場は「線引き論」よりは「葛藤論」に近い。だがそれは、「われわれ」と同等の倫理的配慮を受けるべき存在者=「人間」human beingとして認める「葛藤論」(=井上)ではなく、潜在的な(potential)「人間」として認めるという「葛藤論」である、とまとめる。

山根はこの論争のすれ違い(最終的に加藤は井上の議論に対し「拙稿が提示した問題を完全に無視し…したがって、拙稿に対する反論としてはほとんど見るべきものがない」としている)から学ぶべきところから出発しようと述べる。最終的に両者ともに「葛藤論」を支持しているが、これらを、井上=「権利葛藤論」、加藤=「倫理的葛藤論」と呼ぶことにしたいと山根は述べる。
山根は、


加藤の議論には不整合な部分もある。なぜ加藤の議論においては胎児が「権利主体ではないこと」が強調されねばならなかったのか、理由は明確ではない。そもそも「個体的存在者」でなければ権利主体=人間ではない、という主張も、加藤の「身体感覚」でしかない。加藤も、個体として独立できることをもって人間であることを確定するという、「線引き」を行なっている。

としているが、加藤の議論は「胎児は権利主体ではない」ことを主張するものではなく、「権利‐主体」であるか否か、ということは完全に棚上げしたうえで議論すべき水準の問題として、フェミニズムは女性‐身体と胎児‐身体の関係を論じてきた、ということを確認しているに過ぎないのではないか。

また、加藤は「個体として独立できることをもって人間であることを確定」しているだろうか?女性‐身体もまた、免疫システムや消化器官に依存しているがゆえに個体でも人間でもないということは可能である。ここで示唆されているのは、「人間」を「個体」(あるいは「統一(unity)」)としてみなす観察の準拠するオーダーの問題である。

いうまでもなく井上は法に準拠し、加藤は法の環境にすぎない「個体(権利主体)」から観察をスタートさせながらも、オーダーを変え、法に準拠する以前に措定されるような、物質的連続体から倫理を立ち上げようとしている。むろん、そのような「以前性」自体が仮構されたものにすぎないともいえるが、加藤の議論で重要なのはそのような仮構を可能にするような「法による(法が前提として利用する)仮構」の、一段階高次のオーダーへの準拠を示唆しようと試みている点である。その試みが成功しているかどうかは別の問題だが。

また、この「論争」で井上が徹底して法にのみ準拠しようと努める態度は、法(哲)学者の態度としてはまっとうである。

3

報告者はここで、「統一」をとりあつかう諸観察のオーダーを問題にしてきた(つもりだ)。

卑近な例をあげよう。ある化粧品メーカーが、女性モデルをつかって広告を打ったとする。このモデルは広告内で、異性愛男性の欲情をそそるようなセクシーな表象を体現していたとする。この広告が駅貼りのポスターとして配備されたとき、男性属性を帰属される個体は、ポスターの前で立ち止まり、美的に・性的に鑑賞するだろうが、消費者として主体化されない。マーケティングからは排除されている。消費者として主体化されるのは女性属性を帰属される個体である。このときこの「女性」はポスターを美的・性的に鑑賞し、欲望を喚起され、消費者として主体化される。疑いなく、この場面で、ポスターに表象された美しさへの欲望を備えているのは(男性ではなく)女性である。なぜ疑えないかといえば、欲望は神経システムとカップリングされた心的システムにおいて感得され、あるいは感得されないにしても、欲望の流れは対象と、女性個体の閉鎖した諸器官における作動であるからだ(男性のスケベな欲望が女性の脳に流れ込んだという神秘主義を支持するのでなければ)。

むろんここでも、「女性は男性に従属させられており、男性の視線を内面化しているのだ」というもっともらしい説明が可能であるかもしれないし、そうでないかもしれない。だが、いったい内面化とはなにか。そこで前提とされる「内面」こそが、統一としての「身体」をターゲットとした権力装置の操作上の概念にすぎなかったのではないか。

欲望はおそらく、個体の中を複数流れている。美しいセクシーなモデルを欲望するのは、男性でもなく女性でもなく、欲望そのものだ。しかし個体とはなにか?肉体を持った「人間」のことか?「人間」という統一もまた、まったく無関係に作動する諸器官が偶然同じ空間上に固まったモノにすぎない。あるいはルーマン流に言えば、「人間の身体は生命の統一性ではなく、意識的な知覚の、あるいはコミュニケーションの統一性である。個々の細胞は、閉じたオートポイエティック・システムとして、遺伝的再生産のコンテクストの統一性を別にすれば、身体のいかなる統一も観察できるようになることはありえない。……同様に、人格は、コミュニケーションの目的のためにのみ形成された統一性であり、たんに割り当てとアドレスのポイントでしかない」(Luhmann[1988])。

問題を整理しよう。権力装置は、観念として・現実構成として、さまざまな統一を利用し、あるいは配備する。法や経済や意識は、それらの統一を利用する。それらの内部観察は、自らの構成をみることができない。だが、それらの作動の外部観察がそれを見ることができる。社会学のミニマムな定義は、統一を利用する作動の外部観察、セカンド・オーダーの観察である。

フェミニズムは、なかでも〈女〉という構成の作動を観察する。

フェミニズムは「批判の原理」であるが、これをもってして「フェミニズム社会学ではない」(あるいは学的観察ではない)などと述べることはできないだろう。なぜならそれは外部観察であり、セカンド・オーダーの観察を導く差異(区別)を備えている、あるいは導入しようとする運動であるからだ。「家族」という統一も同様であり、そこに外部観察がなければそれは家族社会学などではなく、たんに家族学であるだろう。家族社会学のミニマムな定義が、家族学の外部観察であるとしたら、フェミニズムは家族社会学の必要不可欠の一観点を提供するものであるということができるだろう。