代理で書かせていただきます。
斉藤日出夫の友人の妻尾と申します。
友人である斉藤日出夫は、3月30日午後6時から12時までの間に、呼吸不全で亡くなりました。享年33歳でした。
私がここにこの文章を書いている経緯を書きます。
3月31日午前、斉藤から私宛の郵便物を、私は受け取りました。封筒に便箋が2枚と、1万円札が5枚入っていました。
便箋に書かれていた、彼から私への指示に従い(文書の内容は下に引用させていただきます)、私は110番通報しました。救急車は呼びませんでしたが(彼の指示によります)、私が彼のアパートに到着したとき、警察は彼のアパートに救急車も呼んでいました。
彼は玄関ドアをロックしていませんでした。31日正午ごろ、警察が彼の部屋に入ったときには、彼は湯をはったバスタブで窒息死していました。
私が彼のアパートに到着したときには、彼の遺体は寝室のベッドに横たえられ、シーツを被せられていました。警察の求めに応じて、私はその遺体が間違いなく斉藤日出夫氏本人であることを確認しました。その後、遺体は救急車に載せられて、検死へと送られました。
キッチンのテーブルに、3種類の睡眠薬がそれぞれ1シートずつ、すべて使用された状態で残っていました。彼が死の直前にこれを飲んだとすれば、合計30錠の睡眠薬を飲んでいたことになります。外傷はありませんでした。警察による検死結果によると、やはり30錠の睡眠薬を、ビールのようなアルコール飲料(ビールではないようですが)で一度に飲み干して昏睡状態になり、このために、湯をはったバスタブで窒息しそうになっても、意識を取り戻すことはなかったとのことです。当然大量の水を飲んでいました。
私宛の手紙には、この手紙が彼が残す唯一の遺書であることが記載されていました。警察がその手紙を預かることになりました(私の手元にあるのは、私が110番通報した後に、コンビニでとったコピーです。このコピーをとることも彼の指示によります)。
警察は彼の部屋を捜索し、パソコンの全ファイルを検索しましたが、やはり遺書らしきものは見つかりませんでした(パソコンの電源は入っており、ログオン状態でしたが、彼は常時そうしているようでした)。一通りの捜索が終わると、いったん我々は品川区荏原警察署で事務的な手続きを行い、自殺の動機の心当たりに関する事情聴取などを行いました。
そうして私は一度帰宅することを許されたのですが、もう一度斉藤氏の部屋へ戻ってきました。
私は斉藤日出夫の友人であると書きましたが、時々携帯電話でメールのやり取りをするぐらいで、頻繁に顔を合わせていたわけではありません。ただ、彼の近況などは、このブログを通じて知ることができていました。私は、彼の友人の多くがそうなのではないかと、つまり彼の状況を、このブログを通じて知っていたのではないかと考え、この文章をここに書き込むことにしました(幸いにも、はてなへもログイン状態でした)。
彼のブログの読者であった、彼の友人たちが、彼の冥福を祈ってくださることを願ってやみません。
以下に、「彼が唯一残した遺書」であると彼自身が書いていた、私宛の手紙を掲載します。

===ここから===


妻尾さま
どうも、斉藤です。ちょっとお願いがあって手紙を書きます。5万円同封します。「お願い」を聞いてくれる場合の謝礼です。「お願い」を聞きたくない場合は、適当に処分してください。5万円で足りない場合は、後述する方法で現金を入手してください。
いま、3月30日の午後ですが、この手紙を書き終えたら、ポストに投函しに行きます。君の元へ届くのは、早くとも31日の午前以降のはずです(君が旅行などしていなければ、の話だけど。しているわけがないと思うが)。
投函後、ぼくは自殺する予定です。今回はうまくいくはずです。もし自殺がうまくいかなかった場合は、携帯でメールします。「これから手紙が届くはずだが、内容に誤りがあるので無視してくれ」とメールを打ちます。つまり、メールが届かず、この手紙を君が読んでいる場合、自殺は成功していることになる。
さて「お願い」の内容だが、まず、110番通報して欲しい。友人から自殺予告の手紙を受け取ったが、内容に信憑性があるようなので、彼の様子を見に行って欲しい。という内容のことを話して、ぼくの住所を言う。たぶん警察は君に、ぼくの部屋に来るように要求するだろう。申し訳ないが、それに応じて欲しい。救急車はよぶ必要はないが、警察が結局よぶだろうと思う。
この手紙は、ぼくが今回自殺するにあたって、唯一書く、遺書です。そのことも警察に告げてください。警察に取り上げられると思うので、この手紙を読んだらコピーをとるとよいでしょう。
「遺書」と書いたが、じつは遺書というものについてぼくはよく知らないのだった。遺言状とは違うんだよね?民法上有効なというか拘束力をもつというか。まあ、ちがうな、遺書に書くべきことというのは自殺の動機とか、「書き置き」、ああ、書き置き=遺書なのか。
まず遺言状的なことを書くと、
1)本・レコード・CD以外の財産については、民法にのっとり、正統な相続人で財産分与して欲しいです。
2)本・レコード・CDにかんしては、妻尾にその処分を一任したい、というのがぼくの望みです。つまり、すべてを妻尾が売却してその利益をどう処分してもかまわないし、妻尾が適切と考える人々に現物を分配してもかまわない。妻尾に一任したい、というのは、その処分のしかたをもっとも適切に思いつくぼくの現在の友人は妻尾であるとぼくは考える。というだけの理由からです。
3)上記(2)のぼくの要求について、民法上の正統な財産相続人から異議がある場合、どうするかは、これも妻尾に任せます。まあ、たぶんこの「遺書」は遺言状としてはあまり正統性をもたないんじゃないかな。わかんないけど。

つぎに書き置き的なことを書くと、つまり自殺の動機についてだが、非常に単純に、自分が生きたいと望む世界と、現実に自分が生きている世界との隔たりが、どうしようもないほど大きくなりすぎてしまった、ということ。
どうしようもない、というのは、理想を変えるとか、現実を変えるとか、双方を変えつつ妥協点を見つけ出すとか、そういった正常な通常の健常者的なことを行う、そのための、体力も才能もインセンティヴもぼくにはまるで残されていない、ということです。
体力や才能やインセンティヴの欠如、といった問題を、ぼくの病気に還元する見方もあるかもしれないが、体力や才能やインセンティヴがそもそも生まれつき不平等に配分されている、という事実・現実は、ぼくが我慢ならないことのひとつです。
どういった世界をぼくが望ましいと考えているかというと、きちんと手続きがふまれる世界、という漠然とした言い方しかできませんが、たとえ話をすると、ある日突然、妻が夫に「あなたと別れたくなったから、今日で離婚ね」と言って書面上の「手続き」を済ませれば、それで離婚が完成するとは、ぼくは思わない。話し合いや葛藤や、まあ、コンフリクトが一定の期間あって、それでも完全には納得しがたい、というところまで行き着いて、「完全には納得しがたい」ということをお互いに納得する。というステータスに到達する。というのが、ぼくのいう「きちんと手続きがふまれる」という事態。
わかりにくいと思うので、もうひとつたとえ話をすると(このたとえもわかりにくい可能性があるが)、友人というものが欲しい、と願っているA氏とB氏がいたとする。彼らが友人を欲しがっている、ということを知る人物なり機関なりが彼らを引き合わせる。趣味も近いし、人柄も悪く無さそうだ。ということで、「では私たち、今日から友人同士になりましょう」と言ったとする。これで彼らは友人同士になったと言えるだろうか?ぼくは言えないと思う。では何が必要か、友情だろうか?それも違うと思う。必要なのは、時間と話し合いだと思う。話し合いといっても、多くの言葉を費やして、討議しあう、というようなものでなくて、挨拶とか、悪意のこもっていない、裏のないリラックスした会話というか。
やはりわかりにくいたとえ話だった気がするが、ぼくがいま考えているのはそんなところだ。
とにかく疲れた。早く休みたい。
君はがんばって生きてください。
さよなら。
斉藤。

===ここまで===