社会システム理論 第4章第8節(後半)

金曜(2007年01月12日)の三田ルーマン研究会。

Social Systems (Writing Science)

Social Systems (Writing Science)

Soziale Systeme: Grundriss einer allgemeinen Theorie

Soziale Systeme: Grundriss einer allgemeinen Theorie

社会システム理論〈上〉

社会システム理論〈上〉

  • 第4章「行為とコミュニケーション」
    • 第8節「コミュニケーションと行為の相互連関」(後半)

隔週で行っています。ただし次回は2月2日(金)、『社会システム理論』第4章「コミュニケーションと行為」第9節の予定です。ご家族ご近所お友達おさそいあわせのうえ、ふるってご参加下さい。
http://groups.yahoo.co.jp/group/mls/



レジュメ:http://www.geocities.jp/hidex7777/mls/

今回、pocastingできません。

ICレコーダ持って行くのを忘れました。

ごめん。

(まあ今回はオタクネタなかったし。「のだめ」ネタをどこかで入れようと思っていたのにどこで入れようと思っていたのか忘れた、とのこと)


今読んでいるのは『社会システム――一般理論の概説』第4章「コミュニケーションと行為」:

  • 第04章 コミュニケーションと行為
    • 01 問題の提示
    • 02 コミュニケーション概念の論理構造
    • 03 フッサールデリダ
    • 04 コミュニケーションの受容と拒否
    • 05 コミュニケーションにおける誠実さの不誠実化の問題
    • 06 コミュニケーションにおけるテーマと寄与
    • 07 いかにしてコミュニケーションは可能か
    • 08 コミュニケーションと行為の相互連関←イマココ
    • 09 コミュニケーション・システムの可能性
    • 10 おわりに

です。

第08節「コミュニケーションと行為の相互連関」(後半)


[04-08-14]ゼマンティク上の投入〔どんなゼマンティクが導入されるかは〕、それは行為システムとしてコミュニケーション・システムを記述する、そうした自己記述との関連において促されるはずのものだが、ひとつには文化歴史的な、ひとつには状況特殊的な問題である。精気と力(Säfte und Kräfte)のゼマンティクで充分事足りるのか、あるいは利害関心が前提されなければならないか。告解あるいは法的手続きの文脈において、固有の行為への「内的同意(innere Zustimmung)」〔「動機」のことか〕を突きとめなければならないかどうか。行為をその環境〔心的システム〕にしっかりと、かつ柔軟に位置づけるために。行為は心理学化されねばならないのか、あるいはそれを行為者は意識化してはいないがセラピーによって明らかになるはずの要因に還元されるべきなのか――こういったすべては、状況に依存しているのであり、社会システムにおいて自明視されるものかもしれない。そのさい、行為者には、多かれ少なかれ首尾よく、自己帰属の正しい作法が教えられるだろう。そうして行為者は行為するさい、ちょうどよい時に、可能なかぎり前もって気づくことができる。そしてそのことは自己制御によって社会的制御の負担を軽くする。

[04-08-15]社会システムの自己記述を行為に関係させる、二つの根拠があるだろう。ひとつはすでに述べたものだ:行為はコミュニケーションよりも、より認識しやすく、より取り扱いやすい。行為の統一は、他者の理解によって成立するものでもなければ、観察者が情報と伝達のさいを読み取ることができるということに依存しているのでもない。観察者は帰属の規則を適用しさえすればよく、その規則は一定の社会システムにおいて慣習的なものである。確かに、行為も、社会システムにおいて取り扱われるために、コミュニケーション過程へ入ってゆかなければならない。伝達としてであれ、情報としてであれ。社会システムの、あらゆる自己記述、あらゆる自己観察は、それ自体またコミュニケーションであり、そのようなものとしてのみ可能である(というのは、そうでなければ、それは外部からの、たとえばひとりの人物(Person)による記述ないし観察だけが問題だ、ということになるだろうからだ)。単純化は、関係づけのための接続の箇所として役立つのは行為のみであり、完全なるコミュニケーション的事象ではない、という点に存する。またしたがって、行為についてのコミュニケーション、ないし単純な接続行為をめぐるさいには、ひとつの〔三つのではなく〕抽象化で満足することができる、という点に存する。またさらに、かなりの程度まで、完全なコミュニケーション的事象の複雑性を度外視することができる、という点に存するのである。負担免除は、どの情報に伝達が関係しているのかということも、誰がそれを理解したのかということも吟味する必要がない(あるいは特定の状況の元でのみ吟味しさえすればよい)という点に存する。

[04-08-16]二つ目の利点についても述べた。行為への縮減は、社会的関係の時間的非対称化を促進する、という点である。通常、我々はコミュニケーションを、つねにすでにあまりにも、行為として考え、ゆえにコミュニケーションの連鎖を行為の連鎖として思い浮かべるものである。コミュニケーション的出来事の現実はははるかに複雑である。コミュニケーション的出来事は、自我と他者のダブル・コンティンジェンシーを双方で取り扱うということを前提とし、一時の間、未決定の状態にあり(in der Schwebe)、理解というかたちで完了される前に、意味ありげな沈黙による問い合わせ、ためらいが必要となるかもしれない。あるいは、伝達が行為として存在していたとしても、コミュニケーションとしては座礁するかもしれない。それに対して、一連の行為をひとつの行為が他の行為を可能にする事実の連鎖として思い浮かべうるとしよう。行為が時点に固定されうるのならば、方向付け〔定位〕を促進する。コミュニケーションが、時間の経過における可逆性を持つのに対し――それを理解するのに困難を感じうるし、それを拒否しうるし、あるいは伝達されたことを訂正しようと試みうる(それが伝達の【行為】であることは疑いえないことだとしても)――、行為は時間の不可逆性を際立たせ、行為自身を互いに関連づけて通時的に秩序化を行うのである。

[04-08-17]こうした時点拘束化と非対称化の助けによってはじめて、オートポイエシス的社会システムは〔自らを〕形成することができる。このようにしてのみ、接続能力の問題はその輪郭がはっきりとしたものになってくる。コミュニケーションが理解されうる伝達を選択するさいに、未来および過去の方向へ手を伸ばすことは、それが時間を超えてまたがるにもかかわらず、またこのことがコミュニケーションの前提であり続けるにもかかわらず、ある一時点に関連づけられていなければならない。伝達者が行為する、その時点に。社会システムはこうして、行為システムとして形成されるのだが、行為のコミュニケーション的コンテクストを前提としなければならない。行為もコミュニケーションも双方ともに欠くことができないものであり、また再生産の要素からの再生産を可能にするためにたえず協働しなければならない(66)。

[04-08-18]オートポイエシス的再生産とは、規定的行為があらゆる適切な事例において繰り返されることを意味しているのではない(例えば煙草に火をつけたいときにはいつでも、ライターに手を伸ばす、といった)。反復可能性は、構造が形成されてはじめて、追加的に、確実なものにされなければならない。再生産は、生産されたものからの生産ということのみを意味する。 そして、オートポイエシス的システムにとってこのことは、システムがその顕在的〔現時的〕活動と共に終わるのではなく、継続する、ということを意味する。この継続はしかしながら、行為が(意図的にであれ非意図的にであれ)コミュニケーション的価値を有しているということに依存している。

[04-08-19]コミュニケーションと行為の相互関係が、自己観察や自己記述の問題と結びついているという洞察を兼ね備えるなら、我々は次のステップへと進むことができる。一般システム理論の水準においてすでに、構造化のはたらきを発揮する自己単純化によって、複雑性がどれだけ抑制されるのかを、確認している。例えば高分子や、対象そのものでさえそれ自身のうちに記述を含んでいる(67)と述べることが、どれだけ有益であるかということを、ここでは開いたままにしておこう。いずれにせよ、われわれの探求の対象である社会システムは、自己記述を必要とし、発展させているように思われる。それは、互いに関係づけられることになる出来事を、行為へと縮減することによってである。それらの固有の現実がきわめて豊かなものだとしても。自己観察はさしあたり、独自の情報処理をおしすすめる一要因(ein Moment im Prozessieren der eigenen Informationsverarbeitung/an aspect of processing one's own information processing)である。またこうしたこと以上に、自己観察〔オペレーション〕は、システムがそれ自身についてコミュニケートするときに、何についてコミュニケートするのかを固定することによって、自己記述〔テクストの形で同一化すること〕を可能にする。自己観察は、自己を観察するその領域〔つまり自己〕を、他のものへと関係づけうる統一として利用可能にする、そうした(他の何かとの差異における)同一性をテーマ化するという意味における、反省(Reflexion/reflection)を可能にし、おそらくは、なくてはならないものにさえする。

[04-08-20]自己言及的システム理論の概念を借りるなら(68)、すなわちそれは、システムは自身の作動によって自身の記述を行うことができ、さらに自身を観察することができるという考えであるが、コミュニケーション・行為・反省のあいだの結びつきを主体理論(意識の主観性の理論)から距離をおくことができる。もちろん、意識なしで社会システムが在りうると主張してはいない。しかし、主体〔主観〕性、意識を利用できること、意識にとって基底的なものは、社会システムの【環境】として想定されるのであって、その【自己言及】としてではない。このように距離をおくことによってはじめて、真に「〔社会システムに〕固有の(eigenständige)」、社会システムの理論を成し遂げられるのである。

[04-08-21]自己記述の行為への縮減は、ある問題へと導くが、第5章で再び取り組むこととし、ここではそれを示すだけにしておく(69)。自己言及的システムの理論から、直接的に次のことが付随すると思われる。すなわち、システムの自己記述は、そのシステムを、【その環境との差異】として解釈しなければならない、ということである。自己記述は、詳細を省くある種の描写であるだけではないし、モデルの輪郭や自己の写像であるだけではない。すなわち、それはまた、それが経験されうる複雑性を増大させるはずなのである。そうしてこそ自己記述が確証されるのである。それは、システムを環境との差異として表すことによってであり、この差異を手段として、接続的行動への情報と手引きを獲得することによってである。行為への縮減は、反対の方向へ向かっているように思われる。つまり、自己再生産それ自体――行為による行為の刺激としての自己再生産――の諸契機へと向けられているように思われるのである。こうした単純化は、自己記述へと課される要件が満たされる、いかなる保証も提供するとは思われない。とくに、(環境を指し示す意味的テーマを介する)コミュニケーションが行為へと縮減されてしまっていることを考慮するならば。

[04-08-22] これらのジレンマに対し、伝統は、問題それ自体を定式化することなしに対応してきたのであるが、そのつど二つの行為概念を提案してきた。つまり制作的(poietischen)なものと実践的(praktischen)なもの、制作技術的なものと自己価値を帯びた(selbstwertgeladenen)ものと、である(70)。こうして、そこにおいて「合理性」が議論されてきた、ひとつのゼマンティクに到達した。しかし、合理性のテーマは結局、合理性を区別できる類型論へと分解することになる。それらの合理性同士の関係はもはや、合理性の要請下に置かれえない。たとえばある種の序列に従うなどして(nach Art einer Rangordnung)。理論構築の技術的にいえば、これは誤っているように思われる。(行為を超越した)根本問題へと戻る代わりに、二つの類型を区別しているのである。すなわち、問題化する代わりに、たんに二重化している。われわれは合理性の問題を、あとで取り扱うために後回しにしなければならない。端緒はしかし、こうした〔伝統的〕立場に反対する。それは、いかにして、行為のつながりへと縮減されている社会システムの自己記述へ、システムと環境の差異を組み込み、情報の潜在能力が獲得されうるだろうか、という問いに存している。あるいはより短く定式化するならば、複雑性の縮減を通して、とらえうる複雑性を増大させることがいかにして可能だろうか。