街角 ヤーヤーボール
18時 起床。
レキソタンソラナックス。
21時 就寝。
0時 起床。パキシル。
7時 サイレースレンドルミン。
たまに書いておかないと忘れられるので書いておくと、エントリタイトルはhttp://home9.highway.ne.jp/syolog/ringo.htmlを使って生成している。飽きるまでやる。
[sclg]0610の社会学
- いま、わけあって、某計量調査を利用した「家族社会学」の論文をまとめ読みしているのだけれど、
- (計量調査を利用したからといって「量的方法」を用いている社会学テクストだとはいえないが、いま読んでいるシリーズは、いままでのところすべて「量的方法」を用いている)
- まあ、この圧倒的な不快感に耐えながら歯をくいしばって読んでいるわけだけれど、印象としては、「点描」的だなあ、ということ(「印象」とかけているわけではない)。
- 点描的というのは、単純に言えば理論の欠如ということだけれど、つまり、点描が成功して一枚の(あるいは複数の)画に成るようには思えない、ということなのだけれど(「点描画」ではない、ということ)、
- ルーマンは倫理学に、倫理の基礎づけ理論ではなく道徳の反省理論としての学問であることを求めたわけだけど、
- 上で「点描」的と言った一連のテクストは、基礎づけも反省も両方欠いている。求めてもいない。あるのはただ「接続可能性」だけなのだが、そしてその接続の(巨大な)動機づけ
- (この場合の「動機づけ」は、テクストの「著者」とみなされる行為者に準拠したときの動機づけ)
- が存在していることも確かなのだが(権威のある膨大な先行研究があることと、これをやっていればアカポスがあること=生命維持可能性があること)、はたしてこれがなんらかの意味で「学」だといってよいのだろうかと、ちょっと頭を抱えたわけだが、
- 先に述べた行為者の動機づけ、とは別に、「接続可能性」の動機づけに貢献するものとして(こっちが重要なのだが)「仮説」と「モデル」があることが、なんとなくわかってきた。仮説とモデルは、これらの一連のテクストのコミュニケーションメディア(象徴的に一般化はされていないであろうが)となって、接続可能性を担保している。
- この雑文は「この圧倒的な不快感」の正体を同定・還元・縮減・単純化したいという個体的欲望のもとに書かれているが、この正体の名称ははじめからわかっていて、「理論の欠如」につきるわけだが、当然ながら「理論」と「仮説・モデル」はまったくもって何の関係もない。
- 「家族研究」「家族学」に、ぼくは「家族(現象)の反省理論」たることを求めているわけだが、
- そしてそれが「家族社会学」の名のもとに行われてもべつにかまわないとpublicには申し上げておくが(privateにはポケットの中で中指をおったてているとはいえ)、
- やっかいなことに、反省理論であることを求める以前に、それらは基礎づけ志向をさえそもそも欠いており(非常によいことですね)、なにをどうしたら反省になるのかがよくわからない。
- 〔反省とはコミュニケーションの連鎖全体が、コミュニケーションの連鎖全体を観察すること。つまり自己観察。自己単純化・アイデンティフィケーション〕
- 家族の営みを観察し、同定すれば反省になるのか?だとすればそれはすでに目指されているといってよいだろうし、また、頓挫しているといってもよいだろう。