社会システム理論 第2章11節

金曜(2006年7月21日)の三田ルーマン研究会。

Social Systems (Writing Science)

Social Systems (Writing Science)

Soziale Systeme: Grundriss einer allgemeinen Theorie

Soziale Systeme: Grundriss einer allgemeinen Theorie

社会システム理論〈上〉

社会システム理論〈上〉

  • 第2章「意味」

隔週で行っています。
次回は7月21日8月4日(金)、『社会システム』第4章「コミュニケーションと行為」の予定です。
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今読んでいるのは『社会システム――一般理論の概説』第2章「意味」:

  • 第02章 意味
    • 01 はじめに
    • 02 意味概念をめぐって
    • 03 意味と情報
    • 04 意味と世界
    • 05 意味概念の展開
    • 06 意味の三つの次元
    • 07 体験と行為
    • 08 三つの意味次元の分化
    • 09 象徴的一般化と予期
    • 10 意味とコミュニケーション
    • 11 意味の形而上学をこえて←イマココ

です。

第11節「意味の形而上学をこえて」

  • [02-11-01]意味理論の内容と歴史

この理論(本書で呈示されている理論)は、形而上学の伝統とかかわることになる。それは2つのレベルでであって、つまり

    • (1)形而上学的理論の内容
    • (2)形而上学的理論の展開と社会構造の発展の相関を記述した「思想史」

の2つのレベルにおいてであり、それらを関係づける。

  • [02-11-02]存在としての思考

形而上学」というタームを使い続けるとすれば、【存在の自己言及】について教示するものとして類型化できよう。「存在」(ひとつには「ある」、もうひとつは「である」の意味で)のなかに、「存在」のスペシャル・ケースとして「思考」と呼ばれるものがある。
形而上学はものごとの本質、「である」にかかわるものだけれど、そのように考える「思考」という存在も、存在のなかにある。
このとき、形而上学は、存在と思考――このとき「思考」は「存在としての思考」であるが――にかかわるものだといえる。

  • [02-11-03]存在と思考

古典的には、論理学の二分図式が存在と思考を、分離しつつ繋ぐために用いられた。
一方で思考は、(存在からの)逸脱、矛盾を、言語的表現のレベルで可能にする。
他方で論理学は、矛盾の禁止により、存在から逸脱する思考を除去するのに役立つ。
存在から逸脱するとき、思考は、たんなる意識としてそれ自体に気付き、否定的に、誤り・虚偽として自己を類型化する。

  • [02-11-04]存在/思考‐図式における存在の優位性

二分図式としての論理学は思考に帰属される。かつ、論理学は思考と存在の関係を秩序づけるために用いられる。
このとき、存在の肯定的評価は、逸脱した思考への否定的評価を必要とする*1
知識社会学の観点から言えば、コントロールしたり自ら創出したりできない「自然」に対峙する社会にとっては、こうした存在/思考(←これはヒエラルキー的だ!)のショートサーキットは、もっともらしいのだ。

  • [02-11-05]社会進化と存在優位構想の基盤の変化

階層的分化から機能的分化への移行において、形而上学のこの構想のもっともらしさの基盤が変化した。まさに、ここで(本書で)特に重要な問題としているやり方で、である。
ますます社会は、自ら作り出してゆく現実にかかわり続けるような状況になってくる。社会化、教育を通してそうであるところのものになった人格。技術的処理によって統制される、物理的‐化学的‐有機的自然。
つねにすでに、みずから解決しなければならない問題の創出に参加しているのであり、欲していないものをつねにすでに欲してしまっているのである。

意識の主体性とともにはじまった、近代的な主体‐形而上学は、この基盤の変化を十分に描くことができなかった。伝統的な、「存在と思考の対置」を、「存在と主体的意識の対置」へと発展させることができなかったからだ。
意識の根底に存在するもの(基体=ヒュポケイメノン)を、「存在」なしに考えようという企図は、あった。だが、存在から排除された主体は、

    • 認識論に特化したか(主体は世界にかかわらない!…→世界とかかわらないでどうやって世界を認識するの?)
    • 革命的なものになった(主体は世界を変革する!…→一種の世界とのかかわりあいといえる)

……このどちらの解決もうまくいかない。
外世界的主体を位置づけることも固定することもできないのは、主体‐形而上学の理論の概念的欠陥を象徴しているにすぎない。認識する主体を認識される世界からはじき出すことは不可能!

  • [02-11-07]自己言及的意味理論と形而上学の問題定立の同型性

われわれの、有意味に自己言及的なシステムの理論は、意味と存在を同一視することも対置することも避ける。
われわれの理論は、自己言及的な閉鎖性の構想を定式化しており、この構想は、この構想の定式化を、定式化された構想の中に再び受け容れるのである(再参入!)。
端緒は「自己言及的な閉鎖性」。意味は、顕在的なものと潜在的なものとの差異である。と述べること自体が、顕在的なものと潜在的なものの差異を用いた定式化から出発している(すでにはじめられている)。すでにはじまっているということをはじまりとする。差異があるということからはじめる。このように、「どこからはじめるのか」という問題の定式化の仕方は、形而上学と同型である。

  • [02-11-08]超越論哲学の登場

古い解釈によれば、科学は、その対象に内在する、対応する合理性に依存する。こうした解釈は超越論的哲学によって放棄された。→現実はそれ自体としては知りえない。(カント!)
自己言及システムがもつのはただみずからが可能にした環境へのコンタクトのみ。環境そのものなどない。
認識という特殊ケースにおいても、またシステム行動一般においても、構造化された、環境の介入に耐えうる複雑性を前提する。

  • [02-11-09]科学システムの分出と価値自由

意味システムによって、意味の形式においてのみ、環境は体験されうるし、処理されうる、ということに注意すべきであり、このこともまた、内的に条件づけられているということに注意すべきである。
環境内の意味システムはスペシャル・ケースである(意味システムでないものも環境にはある)。意味システムについていえることは、意味特殊的な一般化(三つの次元の一般化が支えあうことによって形成される予期)も、環境を観察・理解・分析する前提条件を形成する、ということである。
科学システムも同様である。「価値自由」の公準はたんに、あらゆる作動を科学システムの自己言及に結びつけるということだけを象徴している。対象における、一般化された構造を否定しないし、それらを支える規範的メカニズムを否定しない。

*1:代補の論理だねえ。