「オザケンの童話やばくない?」っていわれているのは

「童話じゃないじゃん」って理由かららしいのだけど、たしかにこれは「童話」じゃなくて「寓話」ですね。
でもどこにも「童話」って書いてないよ、これ。A fictionとしか書いてない。雑誌のタイトルも『子どもと昔話』(Children and Folktale)であって、メルヒェン(nursery tale)ではないのだね。

小沢健二の連載「うさぎ!」の第一話が、小沢健二の父小澤俊夫口承文芸学)の編集する『子どもと昔話』(25)に掲載されたのを受けての噂話ですが。

この寓話自体は、昔話の形態を使って現代社会を皮肉ってみるという、よくあるものです。「豊かな」国々(の人々)と「貧しい」国々(の人々)の対比を、「大きなお金の塊」の中に棲む「灰色」という、経済システムの自律性を擬人化した「人ではない」モノの口を借りて語り、ドゥルーズ的監視社会とフーコー的管理社会をミックスしたような現代社会をシンプルに記述し、「親が子どもに、ただお話を聞かせているなんて、とんでもない。……ライセンス料をとることもできない」と、民間説話とモダンな経済システムの関係を皮肉ったりもしています。

そうやって灰色の計画のために、「豊かな」国々から働き先がなくなったのに、灰色は、話をさかさまにして、「若者たちがなまけている」といって、責任を若者たちになすりつけることにしました。
夕方のニュースから、「なまけている若者」というイメージが、たっぷり流されはじめました。憶えやすい流行語がつくり出されて、くりかえされて、人びとはどんどん、本当に若者たちがなまけているような気になっていきました。

と、「ニート」や「希望格差」に触れることも忘れていません。
「灰色」という自律的な経済システムの擬人化を持ち出したのは、「ひと」に帰属することを避けるためのベターなやりかただと思います。ただ、自律的な経済システムと自律的な教育システムのカップリングの記述にはあまり成功していないように思いました。コンティンジェントな子どもに「灰色」が困るのはいいのですが、「子ども」が困っている様子がまったくないようだからです。
ただ、「子ども」の代表である「うさぎ」たちが登場するのは次回以降からのようなので、そこは期待したいところですが。(でもせっかく経済を「人ではない」ものとして書いているのですから、子どもも人ではないものとして書くべきだと思いますがね。)


25号に掲載の、小澤俊夫氏のエッセイがすごく面白いです。癌の手術の当日、次男(オザケンのこと)が寝坊したとか。