“SAW2”(2005)

『奇談』を観に新宿に行ったら9日で終わっていた。早い。
間接的に観た人の感想を聞くと「そもそも諸星大二郎の作品を映画化するなんて無理なハナシなんだって!阿部寛がいつ『どんとこい』と言い出すかハラハラ」だそうだが、やっぱりあの名作「生命の木」を相手にどれだけ健闘したのか、確認したかった。
まあもともとレンタル市場狙いで制作されたんだろうな。
ここのところ稗田礼次郎のフィールドノート・シリーズ(妖怪ハンター)が続々文庫化されていて、いやがおうにも盛り上がっていたところだけに、肩透かし。矢沢永吉のライブだと思ったら板尾さんが歌ってたみたいな。

妖怪ハンター 地の巻 (集英社文庫)

妖怪ハンター 地の巻 (集英社文庫)

妖怪ハンター 天の巻 (集英社文庫)

妖怪ハンター 天の巻 (集英社文庫)

稗田のモノ語り 魔障ヶ岳 妖怪ハンター (KCデラックス)

稗田のモノ語り 魔障ヶ岳 妖怪ハンター (KCデラックス)

奇談 (角川ホラー文庫)

奇談 (角川ホラー文庫)

それでそのまま帰るのもしゃくなので“SAW2”を観た。
前作のレヴューは→http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20050625/p3
ドラマとしての面白さは前作が勝つ。しかし「続編はたいていオリジナルをスポイルする」のテーゼはあてはまらない。
前作のレヴューで、

この映画のもっとも大きな欠点は、すべての出来事を知る超越的他者が作品の最後に作品内に登場してしまうことだ(その時点で他者が消える)。

と書いた。前作における「超越的他者」は今回、映画前半で早くも画面に登場し、饒舌に語る(トビン・ベル)。彼は知的な知能犯であり、観客にカタルシスを与える。この映画は、前作を観た客たちへのファンサービスなのではないかと疑わせる。
ところがこの映画のラストでは、再びこの事件の【中心】である「超越的他者」が姿を現す。(ちょっとこの辺、観た人にしか何言ってんだかわかんないと思うけど)
要するに出来事の意味を紡ぐ【中心】は具体的にずらされる。
その点で前作と構造は同じだ。
しかし今回は、その【中心】が作品内に登場すること自体は、欠点になっていない。むしろ【中心】のズレこそがこの映画のポイントになっているからだ。前作のレヴューで、次のようにも述べた:

この作品の良く出来ている点は、【中心】である【この密室】が固定されたローカルな、不動の一点であるにもかかわらず(というかそのことによって)、時空と出来事の意味・意義・相貌がめくるめく変貌していく――真理の決定は常に延期・遅延されていく――というやり方・やり口を一貫した緊張感で最後まで止めないことにある。ベンヤミンの「歴史哲学テーゼ」との連想でいえば、歴史記述が永遠に不可能であるかのように、出来事が展開していく。

繰り延べ、延期、遅延が、まさにこの続編のテーマである。

欠点は、監督が変わったからかもしれないが、どうも時代遅れにしか思えない、短いカットをせわしなくつぎはぎすることで緊迫感を煽るといった編集技法だ。なんだか一昔前の流行語でいう「ジェットコースター・ムービー」をみせられているような気分になった。長回しで撮ったほうが効果的なシーンは長回しで撮ってください。

というわけで評価は★2つ半。