出来事。

  • Luhmann, Niklas (1988) ‘Closure and Openness: On Reality in the World of Law’, in Teubner,Guntner (ed.) Autopoietic Law , Walter de Gruyter.

これがある時間を使い、その程度までは「見かけ上の現在(specious present)」という意味での持続を仮定する、ということまで否定する意図はない。重要な点は、出来事は、それが変化することが可能であるような持続を持たないということである。なぜならそのようなことは出来事をさらに小さな出来事へと分割することと等しいからである。

社会システム(およびその中の法システム)はコミュニケーションのみから成り立っているため、それは出来事から成り立つこのタイプのシステムに属する。それゆえこのような場合、オートポイエーシスは、要素がないことの驚異にもかかわらず、あるいは要素が自然消滅してしまうにもかかわらず再生産する、ということを意味しない。そうではなく、要素はすぐに消えるために(in order to)生産され、システムは自身を連続的に崩壊(disintegrate)させる。そしてオートポイエーシスはあらゆる瞬間に止まる――続けられないかぎり。

システムと環境の間のこの種の結合(linkage)が、社会システムと意識の関係において、ほとんど強制的に引き起こされている一方、様々なシステムにおける出来事の二重所属もまた社会内に存在することができる。それはより、時折のことだとしても。支払い行為は経済的に関連性のあることであるが、法的義務を果すことにおいても起こるかもしれない。立法行為は政治的意味合いを持つが、もし法的に妥当であれば、同時に法システムにおける構造的変化をもたらす。ここでもまた、いかなるシステムも、そのシステム自身の他のオペレーションへの自己言及的参照を通して、出来事をそれ自身の要素として構成することができる、ということが事実となる。同時に、より厳密な区別に関心がない観察者は、それぞれの場合において経済的法や政治的法といったひとつの出来事をそれぞれ見ることができるだろう。それぞれの場合における、コミュニケーションのネットワークと要素の定義の選択的パターンは異なったままである。しかしながら同時に、社会的コミュニケーションにおけるすべての側面への関与を基準にすれば、経済システムにおいて支払いが現われないとしたら、法システムは支払いを支払いとして取り扱うことはできないことは明白であろう。それは、もし法システムが法を法としてではなく、いわば特定の政治家による意見の、法的に重要でない表出として扱うことになってしまうとしたら、政治システムは政治活動の成功の証明として法をみたり、あるいは反対派としてたたかったりすることができなくなってしまうのと同様だろう。

よりルースな結合の例を想像することも可能だろう。その例では、外部観察者でさえ、限定できる出来事に二重所属を関連付けるのに困難を感じるだろう。学校に出席することは法的義務に追従することであるが、学習することは法的に要求されえない。クリスマスプレゼントを買うことは、店頭ではそれ自体を認識できない家族のシステム内での出来事かもしれない。そして、ごくまれに法的問題をもたらす――たとえばもしそのプレゼントが離婚の根拠になるように選ばれたのだとしたら。

いかなるケースにおいても、タイトなカップリングであれルースなカップリングであれ、出来事を通したこの現実の媒介は、関連したシステムが情報として処理するものと区別されなければならない。情報とは、システムにとってもっぱらに内的な選択にほかならない。そしてそれはシステムの選択地平によって条件づけられている。それゆえ、いくつかのシステムにおいて同時に現われた出来事が、それらのシステムによって情報として用いられることは、可能なことでも必然的なことでもない。これに相応して、ひとつの出来事と、それと同じ出来事のびっくり価値はシステムごとに異なる。政治政党への経済的貢献の有名な実践は、法システムにとってのみびっくりであることだったが、いっぽう政治システムは法システムがそれによってびっくりするという事実によってのみびっくりし、経済はそのようなわずかな金額にいかなる重要な情報価値をも帰属することはない。

情報――すなわち同等に可能な他の出来事や非出来事の一定の範囲からの選択――に関しては、すべてのシステムはそのシステム自身に依存している。このことは、システムがシステム自身にではなく環境に割りふる出来事に対してシステムが付与する、システム自身によって実行されたオペレーションの情報価値についても事実である。情報はコミュニケーションの構成素以外のなにものでもなく、そしてそれゆえ内的なオートポイエティックなオペレーションのひとつの相であるため、その認知的構造はシステム内におけるシステム/環境差異の内的表象にもとづいている。

ここで提供される、一方での環境へのリンク――物質的連続体および出来事の同時的現われを通しての――と、他方での情報処理プロセスの区別は、懐疑主義の時代以来精神を煩わせてきた問題を解決する。一方ではシステムはそれ自身のオペレーションのモードのみを利用でき、情報をそれ自身のオペレーションのみを用いて処理する。システムがこのようにして現実について決定するすべてのものは、それ自身のオペレーションに従属したままであり、それゆえ否定可能(negatable)である。したがって、システム内で、現実の確かさには、それ自身のオペレーションの結果への、それ自身のオペレーションの回帰的適用のみをつうじて触れることができる。すなわち、セカンド・オーダー・サイバネティクスによってのみであり、フォン・フェルスターの意味での固有状態によってのみである。他方で、システムは自身のオペレーションの実行において、物質的連続体によって支えられなければならない。システムは、情報としてシステム自身の内に存在するすべてを再構成できるほどの、十分な「必要多様度」をもっていない。法システムはとくに、それ自身を、システム内の出来事の多様なメンバーシップと同様に、コミュニケーション的相互作用の一般的可能性に(したがってそれ自身の社会性に)もとづかせることができなければならない。もしそうしなければ、無限の彼方まで行くことになってしまい、究極的には、他のすべての可能な世界‐状態からのひとつの世界−状態の選択として、すべての出来事を扱わなければならないからだ。

懐疑主義は、現実に存在する世界における生の確かさは情報処理の結果として期待することは決してできないという、その見解においては正しかった。同様によく知られた、この見解は首尾一貫して擁護されえないとする反論は、しかしながら、現実の前‐懐疑主義者的確かさへと連れ戻さない。それはただ、次のことを指し示すだけである。システム内での一貫性テスト――それによってシステム自身のオペレーションはそのシステム自身のオペレーションの結果へと差し向けられる――はシステム内で現実の指標として用いられるということ。そしてこれは、もしシステムが自己言及と他者言及の区別も持っていて、それによって、システムが情報の選択をそのシステム自身に割り当てるのか環境に割り当てるのかによって、一貫性テストを分化させることができるのであれば、十分であるということ。