バーレーン戦

日本代表は時々こういう奇妙な試合をする。どの試合がそうだったか、というはっきりとした記憶はないのだが、「またか」という嫌な気分がデジャヴのようによみがえってくる。
日本代表といえば、キーパー以外がすべてMFで、パスばかりがやたらとうまく、「組織で勝つ」のようないいかげんなキャッチフレーズで表現され、決定力はない――8年前まではそのような特性がはっきりとあったはずだ。今日の試合でバーレーンがまったくその動きを止めて以降も、奇妙なパスミスは続いた。ここまでパスがへたくそな日本代表は見たことがない。おそらくバーレーンのディフェンスより、練習のディフェンスのほうがディフェンス力は高いのではないか。
奇妙さのデジャヴは、パスミスの連続というたんなる事実に起因するのではない。世界のトップチームでも、だらだらとしたロングボールをあげてあっさりとカットされたり、なかなかシュートチャンスを作り出そうとせずに無意味とも思えるパス回しをしたり、そのようないいかげんな試合をすることはよくあることだ。今日の試合のような奇妙さは、したがって日本代表チームのいいかげんさを意味するものではない。集中を切らさない、チームメイト同士が助け合う、そういったベーシックは律儀に守られていた。
解説者たちは「疲れ」「湿度」という単語を、他の言葉を知らない幼児のように繰り返した。しかし緊張感に満ちた試合中に「疲れ」を感じさせるというのは異常なことだ。実際選手達は過酷な湿度と温度に疲労を感じていたことは間違いがない。しかし、別の種類の「疲労」をチーム全体に、あるいは試合全体に抱え込んでいたように思う。
過酷な運動による疲れが伝わってくる試合は、ざらにある。しかしサッカー特有のエキサイトメントがあれば、そのような疲れはカタルシスを与える。今日の試合は、一言で言って、エキサイトメントの存在しない試合だった。プレイにエキサイトメントがない、ということではない。そもそもプレイとよびうるゲーム要素が存在しなかったのだ。エキサイトメントの不在、という、不在の存在が、奇妙さの正体だ。
このような試合はプレイヤーにも観客にも嫌な疲労感を与える。いつもいつもこういう試合を日本代表がしているわけではない。しかし今日のような試合を見るたび、例の「またか」という感覚がよみがえるのは、非常に不快であり、日本代表の試合を観るときに今後もつきまとう、定期的にやってくる奇妙な抑圧が払拭される見通しはないだろう。