第4回〜『権力』(1975)

前回(id:hidex7777:20050204#p2)に引き続き、といっても前回の読書会はぼくは風邪でお休みしてしまったので、『法の社会学的観察』を消化しきれていないのですが、とにかく今日から初期ルーマンの基本著作『権力』(1975)を読みます。

権力

権力

Macht

Macht

長岡訳は、訳語選択の点で現在的ルーマン業界と若干齟齬がありますが、とても読みやすく、読者の味方、すばらしい、美訳!というわけでオススメです。『信頼』とかより初学者向けだと思いますよ(『信頼』はいまだに難しいと感じる)。

原著の発行が1975年、邦訳が1986年です。ちなみに原著の初版は、19頁と31頁がまるっきり入れ替わっています。長岡さんは「凡例」にて、「原文にあった誤植は、逐一明記しないが、原著者に照会の上、訂正した。たんなる誤植を超えた誤りについても同様である」と、それとなくこの件をほのめかしています。

  • 目次
    • 日本語版への序文
    • 序説
    • 1. コミュニケーション・メディアとしての権力
    • 2. 行為の連関形式
    • 3. コード機能
    • 4. 権力と物理的暴力
    • 5. 生活世界と技術
    • 6. 影響の一般化
    • 7. 権力の危険
    • 8. 権力の社会的な関連
    • 9. 組織化された権力


日本語版への序文

この序文は84年に書かれています。本書が出版されてからなされた反論・異論などを意識して、あらためてルーマンが自己反省的に本書をふりかえって書かれたものだと思われます。
ちなみに長岡さんはルーマンに「本書以後に出版された権力論、なかでもミシェル・フーコーのそれにも言及してもらえると有り難い」と依頼したらしいのですが、「生憎カリフォルニアへ出発の直前だったらしく、多義的なうえ、文献に基づいたチェックの難しいフーコーの著作に論及することは、今回は見送りたいとのことであった」と述べています(訳者解説)。それはあんただろ、と言いたくなりますよね。

ルーマンの立場

この「序文」で、ルーマンは「権力に関する議論」を2つの傾向に分類しています。〈広い意味での権力/狭い意味での権力〉という区別です。ルーマンは後者=狭い意味での権力概念を、みずからの社会理論において育てあげる概念として選択している、と明言しています。そしてその根拠も述べます。

まずこの区別を見ましょう。〈広い意味での権力〉は、「個人や集団の行為の可能性に対して制限を加えることになるすべてのもの」であり、これは肯定的なサンクション(報酬)にも基づきうるものです。この権力は否定的な働きしかせず、「ありうるはずのことを排除する」「自由を制限する」ものです。これにはたとえば、駐車によって、その場所には他の車が止められなくなる、などといった制限も含まれます。

これに対し、〈狭い意味での権力〉は、「あるひとが否定的なサンクションを設定することができ、それによって脅しをかけることができる場合にかぎって存在している」ものです。この権力は、「行為の動機づけのための新たな可能性をつくりだすという意味で、肯定的な働きをする」点で、上記の「否定的働き」と区別されます。フーコーも、権力の生産的働きを論じましたが(ぼくは詳しく知りませんが)、「ありそうでないことをありうるものにかえる」というきわめてルーマン的な言い回しがここでも出てくるので、ああ、初期といえどもルーマンルーマンだ、とぼくらは安心して読むことができますねw。

さて、ここでちょっと気になる文について考えてみましょう。

それはありそうでないことをありうるものにかえるのであり、それなくしては成立しえないような秩序をつくりあげる。さらにいえば、それは、権力保持者の目標と意図がどのようなものであろうとも、彼の計画を超え出て作用するのであり、秩序の選択淘汰的な進化という意味での働きをするのである。……この概念は、しかしながら他方でまた、理論的にも使用することのできる概念である。

ちょっと先読みになってしまうけれど、ルーマンにとって権力は、コミュニケーションなり社会なりといった事態があって、それらがある方向に方向づけられている、そのときその背後で働いているなんらかの〈力〉を指すものではない。分析者なり科学者が、ひとびとの「やりかた」を観察して、そのような事態を成立させている根拠・可能にしている前提を指し示して「権力」とよんでいるのではない(というか、そのような「分析的」な(旧来の?)権力概念をルーマンは批判したいわけだが――しかしそのためにはなぜそれは批判されなければならないのか、といった疑問にも答えなければならないわけだけど)。

上で引用したように、権力なくしては成立しえないような秩序が、今ある事態である。そのような権力は、その秩序を成立させているひとびとが、現に在るものとして信じている・あるいは信じたふりをしてふるまっているところの、そのようなフィクション、表象だ。つまり、ルーマンは、「権力」は分析的概念ではなく、現にひとびとが用いている概念であると言っている。社会の成立(コミュニケーションが成り立っているということ)は、たしかにありそうにない事態だ。けれど、現に成立している。たんにそう見えるだけだ!という批判は当たらない。だって、「たんにそう見えるのだ」という批判が批判として妥当するとしたら、「たんにそう見えるわけではない、本当に成立している社会」というものをその批判者は想定しているわけだから。ではその「本当に成立している社会」とはどのように見えるのだろう?やっぱりぼくたちがいまこうやって見ているように見えるのではないか?だったらなぜそれらを区別する必要があるのだ?そしてどうやってそれらを区別するのだろう?

話がずれてしまったけれど、ルーマンは社会やコミュニケーションの根拠としての(この場合は)権力を否定しない。むしろ、それは在る。ただしその「根拠」は、社会やコミュニケーションの外に(/前に/下に)在るようなものではなく、根拠として用いられている限りにおいて、根拠なのだ。このような記述の仕方を、科学的な説明として承認することができるか否かは、また別の議論が必要なんだけれど。

【追記】肝心のことを書き忘れてた。

ルーマンは「理論的にも使用することのできる概念である」というわけだよね。これはちょっとひねった言い方だ。つまり、権力っていう概念は、ひとびとが現に用いている表象・仮象であり、いまあるように社会があることの根拠である。それが根拠であるのは、根拠として用いられているから。「旧来の」科学では、ひとびとが・現にやっていることが観察されたら、それを抽象化したり一般化して、テクニカルタームで置きかえたりする。しかしルーマンはそれはやらない。ルーマンの理論は、理論的かつ経験的だからだ。理論があって、それをツールにフィールドに出て、経験的研究をする、なんて図式はクソだ。経験的研究をして、それを理解したりまとめたりするのに理論(的立場)を採用する、なんて図式はゲロみたいなもんだ。そういう含意があって、「理論的にも」という言い方を、ルーマンはしているんだ。

さて、先に進もう。

ルーマンは、

境界を限定した精確な作業概念を選びとろうとする場合には……他の諸概念と接続することのできる概念でなければならない。

と言う。社会学者にはいろんな人たちがいて、いろんなテーマについて研究している。あるときに、「じゃあ社会全体はどうなっているのか」と思ったときに、その人たちの考えをぜんぶパッチワークでつぎはぎしても、「社会全体」はまったく見えてこない、ということだ。あたりまえですね。「見える必要なんてあんのか?」というのが大方の社会学者の意見かもしれないけれど、これはむしろ、「全体社会が見えなければならない」という積極的な要請というよりは、「外部を持ってしまう説明は科学的説明として説明力を欠く」という消極的要請としてうけとったほうがいいのではないかと、ぼくは思う。いいかえると、たとえば個人の心理はマスメディアからの影響を受けるが、ある程度は遺伝によって決まっている、なんて説明は、説明としての地位を下げてやらなければならないはずでしょう。説明しなければならないはずのことを、社会心理学者は遺伝行動学者に投げ、遺伝行動学者は社会心理学者に投げ返し、なんてことをやっていたら、永遠になにも説明されないことになってしまう。このケースで科学に与えられている問いは、「マスメディアや遺伝や(略)などによって〈影響〉を受けたり受けなかったりする〈個人の心理〉なるものはどうやって記述できるのか」「記述するとどうなるのか」「どう記述したらなにをしたことになるのか」などなどだ。社会学的には「〈個人の心理〉という語彙を用いてわれわれは何事をなしているのか」という問いが問われなければならない。

また話がズレた気がする。ルーマンは、上記の要請にこたえるために、〈象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア(以下SGKM)〉という概念を採用する。SGKMは、きわめてありそうでないことをありうるものにし、常態化さえしてしまう。SGKMの概要は、第一章で詳説されるので、ここでは、SGKMには権力や愛や貨幣や真理がある、ということを確認しておわり。

本書の目標は、権力によって担われるコミュニケーションの特殊な作動様式を明らかにするとともに、それを相対化すること

と、ルーマンは目標設定する。目標設定っていっても、書いた10年後に言ってんだけど。
これによってルーマンは、ヨーロッパに支配的な「政治的なものに過大評価を与えている社会観」に照準を合わせているという。現代の社会はアリストテレス的な政治的社会でも、ヘーゲル的なそれでもない。国民国家的な考えの歴史家たちのいう政治的社会ではないし、ネオ・マルキストたちのいうそれでもない。「現代社会は、政治的な権力を適用することで計画化ができたり、統治ができるようなシステムではない。……全体としての社会システムは、どのようなヒエラルヒー構造も、どんな頂点や中心も、認めるわけにはいかない」。

まあそんなわけで、ルーマンは、「政治」に対しての欲求不満がたまったオヤジ連中に喧嘩を売ることになったわけ。

てことで、今日はおしまい。