Luhmann"Closure and Openness"

今日の読書会にはタバコ屋のおばさんがいっぱい登場した。

あらゆるシステムは、前提となる物質的連続体において生じる。マトゥラーナはそれをメディアとよぶ。例えばそれらは、ちょうど原子の構成が、結びつけられることが可能であるようなエネルギーを前提することがいうまでもないように、原子にもとづく物質の構造を前提とする。それゆえ、システムの形成の際、それぞれの個々の場合において、世界のいかなる種類の創生もありえない。このそれぞれのケースで前提されなければならない物質的連続体は、分化するシステムのシステム境界を気に留めることはない。それはシステムの内部と外部、両方にあるものだ。にもかかわらず、それはシステム形成の可能性を制限する。そのようなシステムだけが物質的連続体と矛盾をおこさないことが可能であるからだ。

したがって、たとえば、人間の身体は生命の統一ではなく、意識的な知覚の、あるいはコミュニケーションの統一である。個々の細胞は、閉じたオートポイエティック・システムとして、遺伝子再生産のコンテクストの統一を別にすれば、身体のいかなる統一も観察できるようにはならない。有機体は再生産におけるひとつの推移的段階にすぎないからである。同様に、人格(person)は、コミュニケーションの目的のためにのみ形成された統一であり、たんに割り当てとアドレスのポイントでしかない。つまり、意識はそれ自身のオートポイエティックな統一を(人格としてではなく)形成するのだ(そのことは、その統一性が人格であると意識が想像する可能性を排除しない)。

肉体と人格性は、それゆえ、複雑性の縮減であり、統一の総合(unity syntheses)である。それらはより高いオーダーのシステムにおいて、連続体の物質性の相を観察するために用いられる。高いオーダーのシステムは、(肉体と人格性といった)統一の総合によって示された構造以外の、オートポイエティックなシステムの構造を扱わなければならない〔つまりその高いオーダーのシステム自身の構造を扱わなければならない〕。この意味で、「形式の法則」(スペンサー・ブラウン)に従って、身体(bodies)や人格(persons)がそれ自体であるところのものではなく、観察を通して在るところのものであるととらえることは、確かに許されることであり、必要なことである。

法は、「女性」「シリンダ・キャパシティー」「住民」「タリウム」のような言葉が、法の内部でも外部でも十分に一貫性をもって使用されているかどうかということに関わる必要もなければ、関わることもできない。その程度まで、それは、コミュニケーションによるコミュニケーションの社会的再生産のネットワークによって維持されている。女性やその他のものが実際に存在しているかいなか、といった問題が生じたとしたら、それらは脇にどけられるか、あるいは哲学へと差し向けられうるだろう。

たしかに、一般的な物理的/化学的/生物学的な物質的連続体は、社会システムの分化の特殊な効果とは区別されなければならない。しかしながら、システム分化は、システムの諸境界(この場合内的諸境界)に拘束されない連続的な現実の仮定をさらに強化する。そしてそれは、情報処理の結果として到達することができるようなものではない。この意味で、法はそれ自体では作り出す必要なしに、社会が既に成し遂げた現実構成に関与するのだ。それは言語および法システム内外の言葉の、多かれ少なかれ一貫した使用を利用する。

タリウムがセメントの生産において必要であるかどうか、そしてそれはいかなる結果をもつのかといったことは、特に法的な問題ではない。しかしながら、この問題に法的な関連性を付加するのは、環境法が作り上げたケースであるかもしれない(し、そうでないかもしれない)。もし新しい発見がこの領域でなされたならば、その化学的・経済的重要性にかかわらず、法的な重要性を持つかもしれないし、そうでないかもしれない。

電気が法的な意味において動産の「資産」であるか否かは、誰かが、他人が電気を「盗んだ」ということを主張したときに、重要な問題となり、検証される。