memo

……講演を頼まれると、先方から特に演題の指定がない場合は、「これで日本は大丈夫?」と「身体論」のどちらかにすることにしている。
「これで日本は大丈夫?」はいつでも使える。日本社会からわが国の先行きについての不安材料が払底するということはありえないからである。同様に、「身体論」もいつでも使える。私自身の身体、あるいは他の人々の身体について「なるほど、これはそういうことだったのか」と新しい発見をして膝を打つ、という経験の材料が尽きるということも、これまたありえないからである。(内田[2004:237])

子どものころは身体の潜在能力を甘く見ていた。筋トレをすれば大胸筋がつき、走り込みをすれば心肺能力が上がり、ダイエットをすれば腹がへこむ……そういう入力と出力が単純に一次関数的に相関する可塑的なものとして、自分の身体をとらえていた。身体システムの複雑さと未開発の潜在能力はそんなものではない、ということに気がついたのは武道の稽古を始めてずいぶん経ってからのことである。(内田[2004:239-40])

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死と身体―コミュニケーションの磁場
内田 樹


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