山笠問題・これまでのぼくの議論の要点

【0】ぼくの立場

  1. 政治的にはリベラル左派であり、
  2. 学的には「いかなる区別が用いられて観察が行なわれているか」を観察・記述する、という「差異理論的アプローチ」を採用している

以下、「〜べきだ」と言えばそれはぼくの「政治的」立場からの発言であり、「〜である」と言えばそれはぼくの「学的」立場からの発言であると思って欲しい。


【1】発端
まず8月24日に、id:using_pleasure:20040824さん経由で、8月11日にとあるメーリングリストに投稿された「こんなことが許されていいのでしょうか?!」メールの存在を知る。

そのメールの要点はこうだ。

  • 博多祇園山笠というお祭りが例年7月に催される。http://www.cocoj.jp/~yamakasa/
  • その山笠に参加した少女達のふんどし姿の写真が盗撮され、
  • その写真がネットにもUPされ、
  • しかもそれは他の有料ポルノ(赤外線盗撮映像も含む)の販売促進のために利用されている。
  • 自分はこれを問題だと考えるので、
    • 児童ポルノや盗撮ポルノに反対している人たちのところへこのメールを転送して欲しい
    • ただし児童ポルノや盗撮ポルノを好むような輩のところには転送しないで欲しい


【2】問題化の前提
ぼくはそのメールを読み、

  1. まずその文体(文章のスタイル)に驚き(フェミナチ/代々木系)、
  2. しかし「山笠問題」という文脈に準拠することで、多様な論点を搾り出せるかもしれないと思い、自分なりに考察してみた。

id:hidex7777:20040824のエントリの要点はこうだ。

  • 「山笠」という「出来事」が「問題」化される前提は、
  1. セクシュアルなものとして主題化する「意図」を顕在化していたわけではない「祇園山笠」における参加者の身体が(←主語)、
  2. セクシュアルなまなざしのもとに主題化され、(←受動態1)
  3. なおかつ「そのまなざしが凝縮condensedしたコンテンツ」への誘導として利用されている(←受動態2)
  • 以上の「前提」(あくまでも仮定したものだが)を批判的にときほぐすと、次のような疑問が生ずる。
  1. 「顕在化していない」と観察しているのは誰(何)か?=参加者は自己の身体を性化していないと誰がいえるのか?
  2. 仮にある参加者が「自分は性的な視線にまなざされることを意図して山笠に参加していないし、まなざされるのが嫌だ」と述べたとしたら、そこで「問題」になるのは肖像権の問題であって、まなざし=主題化そのものではない。そもそも特定のまなざし自体が「問題」視されることの方を問題視しなければならない。
  3. コンテンツは当該コンテンツに違法性があるのかどうかのみが問題になる。ここでも主題が問題にされてはならない。仮に児童の身体を性的にまなざしているようなコンテンツが違法だとしたら、その違法性を法的に問えばよい。違法のリスクに賭けたい者はそうすればよい。

上記の3点目をここで修正しておくと、「コンテンツの製作・配布過程」に違法性がある場合も問題であるだろう。この点は後日修正した。


【3】エロスとセクシュアリティ

上記エントリの

  • セクシュアルなものとして主題化する「意図」を顕在化していたわけではない「祇園山笠」における参加者の身体が(←主語)

という部分を受け、id:rna:20040826さんが、

祭の場の空気の中ではちっとも性的には見えないのかもしれないけど、写真とか(あるいはお客さんの視点とか)の形で文脈から切り離されるととたんにエロくなる。そこがいい。じゃなくて、そこが問題なのか。

とコメント。rnaさんのコメントは、ぼくが仮定した「前提」を裏付けるものであり、つまり、「問題提起者」と「前提」を共有している、とぼくは指摘した。
ただしそこで、ぼくの提起である「前提」−「批判的ときほぐし」の<対>を再定式化した。

  • 「性的じゃないもの」を「性的にみる」のが問題だとか、「性化する」のが問題だとか(「女性を性的なものとして見るな!」的フェミナチ言説!*)ではなくて、「祭りへの参加」自体がそもそも性的である・あるいはエロティックである可能性は消えない
  • 「伝統的に祭りはそうだった」ということはどうでもよくて、近代的であるところの伝統の現われをエロスとの関連性無しに見ること、語ることのほうが、それこそありそうもないのではないか

*<女性である/男性である>という区別は性的な区別である(トートロジーだが)。

上記rnaさんのエントリへ、id:using_pleasure:20040826さんがコメント。以下抜粋。

こういう「エロ」を巡るコミュニケーションにおいて、「エロス」がその欲望の主体に帰属されるのではなく欲望の対象へと帰属されてしまうことに疑念があります。

これを仮に「エロスの対象内在説」と呼びたいんですが、このとき「エロス」は決して欲望の主体の問題とされることはなく、あくまで欲望の対象から欲望の主体に対して影響を及ぼすようなものだとして想定されている。そしてこのような操作の結果、本来の欲望の主体(今回の件にかんして言えば、「盗撮者」)は免罪され、騒動の原因は欲望の対象である「少女」へと還元されることになる。このようなロジックは、レイプを巡る責任帰属等においても見られるもので、問題大ありなんじゃないか、と思います。

このコメントに、ぼくは次のように反論。

  • まず「セクシュアリテ」と「エロス」という区別を導入しよう。
    • 主体化する装置(=セクシュアリテ)と区別されるものとして「エロス」を対置できる。

つまり<欲望所有者/欲望対象>を区別し、欲望を所有者に帰属する(人格帰属)ことを「問題視」したのですね。この点でusing_pleasureさんとぼくは対立している。

「暗い道を一人で歩いている女が悪い」という言説の例をusing_pleasureさんは挙げてますが、「暗い道を一人で歩いている女は性的だ」という場合はまったく問題がないと思う。そこから「【だから】レイプする」という行為連関が責任免除されるとしたら、それは単に「法的に」まずいでしょう*。

*これはフェミニズムによくあるハナシで、「仮に女性が全裸で歩いていたとしてもレイプが免責されてはならない」。

ただし――これは後から気づいたのであるが――「欲望を内面に持つ者」と「欲望される外的な対象」という区別自体が、セクシュアリテ装置なのであって、「セクシュアリティ生産(=主体化)」と「エロス対象内在説」は表裏一体である。この前提に立つとusing_pleasureさんとぼくは対立していない。


【4】「フェミナチ」発言:批判か罵倒か

上述したように、ぼくは「『女性を性的なものとして見るな!』的フェミナチ言説!」というコメントをエントリした。これに対して、id:using_pleasure:20040827#1093562471さんが、

  1. フェミナチという言葉は使いたくない
  2. いまや「ナチ」「ヒトラー」という記号は批判を行なうための記号として機能しない
  3. 批判の対象の非正当性を暴露することで主張する側の正当性を訴えているという行為ではまるでなく、ただ無根拠に自らの正当性を訴えているだけである
  4. 罵倒の力もない

とコメント。ぼくはこの4点の1〜3には同意しつつも、4点目には同意しない。ぼくの「フェミナチ」発言を再定式化すると、

  • フェミニズムは、女性として主体化する「権力」へのクレーム申し立てを、女性として行なうというパラドキシカルな性質を持つ。
  • このさい問題になるのは〈脱パラドクス化〉の問題ではなく(「問題」のひとつにすぎない)、いかにして問題を設定し・その問題を納得可能なものとして定式化し・納得できるコンテクストを創出していくか、というコミュニケーション接続の戦略である(←フェミニズムのミニマムな定義)。
  • 上記のフェミニズムのミニマムに抵触するクレーム申し立ては――たとえば「山笠盗撮はペドの性犯罪だ!許しておいてよいのでしょうか?!」のようなそれ自体差別的なヘイトスピーチ――、フェミニズムの根源的な部分(それは、一枚岩ではない、多数的なフェミニズムを、家族的類似性で結びつける核のようなものだと、ぼくは思う)を傷つける。
  • よって、ぼくは彼女/彼らを「罵倒」したい。
  • が、もうひとつの「フェミニズム」の用法があり――〈統制的理念〉として機能する〈概念〉(笑)とでもよぼう――、たとえば、まったく「女性であること」と関係がない・関連性が薄い・別の文脈で問題化したほうが低コストであると思える、ような「問題」を、「フェミニズム」の名の元にアクティング・アウトすることを可能にするような文脈を、「フェミニズム」という言葉は作り出してきた。
  • この後者の広義の「フェミニズム」の機能(単純にいえば噴きあがり機能)は「批判」できない(批判するフェミニストがいてもかまわないが)。
  • 「わたしは怯えている、なぜなら女性だからだ」、「わたしは苦しい、女性だからだ」という帰属の操作を、なぜ批判できようか。ぼくはしたくないw。
  • 罵倒の話に戻れば、「このナチめ!」なる発話遂行は、「批判」として機能しない(フーリガン同士の喧嘩のようなもの)。たんに罵倒としてのみ――「おれはおまえに一票投じない!」という表出としてのみ――機能する。


【5】てぃるるさんとの応答

例のMLの元になった文章というのを、私はネット上で見つけた。ある女性が日記に書いたものだ。

というcelestialさんのエントリから、てぃるるさんの日記を見つけた。そのエントリは以下のようなものだ。

盗撮ポルノなんか犯罪だ!と声を上げよう。
先ずは何が出来るのか、どんな方法がいいのか、智慧をしぼるんだ。
児童ポルノだろうが大人ポルノだろうが、
盗撮ポルノは全て非合法化すべきだと私は考える。

これに、ぼくは

  • 君が考えなくても違法なんだよ(笑)。

とコメントした。これは誤ったコメントであり、後で修正することになる。
この日のコメント欄に、引用元のてぃるるさんからコメントをいただく。

# てぃるる 『わざわざ取り上げていただいてどうも。しかし盗撮ポルノはそこらのアダルトビデオ店で合法的に買えるのが現状だということをご存知ですか?
盗撮自体その自治体に「迷惑防止条例」などで禁止されていれば捕まえることは可能なんですが、そういう条例が全国の自治体にあるとは限りませんし、また「条例」であって法律ではないのです。
また、盗撮ポルノ製作業者を訴えた裁判でも、盗撮ポルノ製作自体を裁ける条文が法律には無かったので、不法侵入とか名誉毀損とかで訴えたのだということをお忘れなく。
もっとも、貴殿は判例や法律にはあまり詳しくないかもしれませんが、それらが背景にあるからこそ「非合法化を」と書いているわけです。
私の言う非合法化というのは、盗撮ポルノの製作・販売を全て犯罪として取り締まるようにすべきだ、ということです。

9月1日のエントリにて応答するが、そのエントリ自体に問題があるという指摘を知人からメールで受け、修正する。修正した応答は以下。

  • 「盗撮ポルノ」はたんにポルノのサブジャンルであり、合法的に店頭で購入できることは健全なことです。
  • 「盗撮ポルノ」の製作にはさまざまな方法がありますが、その製作過程に違法行為があれば、その「違法行為」が違法であるとされるはずです。
  • いままで、『盗撮』(ジャンルとしての「盗撮ポルノ」と区別して、「ほんとうの盗撮」を、以降、このように記述します)は、ほとんどの場合、軽犯罪法と不法侵入で違法同定が行なわれてきました。
  • てぃるるさんは≪盗撮ポルノの製作・販売を全て犯罪として取り締まるようにすべきだ≫とおっしゃっていますが、製作過程・販売過程に違法性があれば、それは現行の法の元でもすでに対応可能です。
  • また、「取締り」という点に論点を絞れば、むしろ条例に効果があります。条例も視野に含めた「法整備」ということであれば、効果があると思います。
  • 前回述べなかった点ですが、てぃるるさんはご自身の日記で≪そしてその盗撮ポルノを見ながらぺ○スをしごいてマスターベーションしている変態野郎どもの姿を!≫と書いていらっしゃいますが、このようなヘイトスピーチ(「変態野郎ども」という言葉に差別意識がこもっていることは文脈から見て取れます)をみると、「許しがたいな」と個人的に感じます。それで昨日は「夏厨」的書き方になってしまいましたが、やはり現時点でもヘイトスピーチに対する腹立たしさは変わりません。
    • とりあえず現時点で言いたいことは以上です。
      • ポルノ自体の是非
      • 児童ポルノの是非
      • 山笠における撮影の是非
      • 撮影物の配布の是非
      • 撮影物の営利目的販売の是非
    • についてはここでは述べませんでした。

この日のエントリに関して、メールにて知人とやり取りがあるが、それに関しては別項目で説明したい。


【6】Sさんとの応答

上記エントリに対して、Sさんがコメント(id:hidex7777:20040902#c)。

# S 『憎いものは憎いです。憎いものは憎いという権利があります。
差別って誰に対する差別ですか?
まさか盗撮ポルノ愛好者に対する差別だとでも?貴方の私に対する発言はヘイトスピーチではないとでも思ってるのですか?
他の方に対する「氏んでね」という発言は十分ヘイトスピーチではないですか?
貴方にヘイトスピーチ云々言われたくありませんね。
貴方は私にご自身が憎まれてると思ったわけですか?
また、「現行法で対処できる」と言いますがね、DV防止法を作る時もそう言われましたよ。
だけど官僚や警官や検事や判事や弁護士達の多くは、現行法で対処できるのに対処しませんでした。
何故だか分かりますか?
立法でもしなければ彼らの意識改革がほとんど出来ませんし、彼らが本気で動こうとするのは稀なのですよ。
立法でもしないとなかなか対処しませんよ、彼らは。
貴方はその現場を知らないからそんなことが言えるのです。
警察が動かなかったために数多くの犠牲者が出ましたし、今も出ています。』

Sさんからのこのコメントにはまだ返答していなかったので、以下返答したいと思う。

  • 憎いものは憎いという権利がある

8月24日のエントリ(id:hidex7777:20040824)に

自分の憎悪や実存や趣味判断やアイデンティティ・ポリティクスや(以下略)などを、どこで誰に向けて発言しようが書こうが勝手だと思うけれども、

と書いているように、同意します。

  • 誰に対する差別か?

「変態野郎ども」に対する差別です。本エントリ【2】で再び述べたように、そもそも特定のまなざし自体が「問題」視されることの方を問題視しなければならない。
いいかえれば、「人間」「主体」の「内面」に性的指向(sexuality)を帰属し、その「内面」の不当性を云々すること自体が差別であると考えます。誰がいかなる性的指向を持とうが(あるいは持つまいが)、そのことが問われてはならない、と思う。

ぼくがSさんについてなにか述べたのは、「議論はMLかblogか」「文体がフェミナチ」のふたつのみであると認識しているのですが(ほかにあれば教えてください)、前者に関してはたんなる議論の投げかけでしかありません。
後者に関しては、侮蔑的な罵倒表現であるとは思うけれども、法的な不当性を構成しはしないと考えています。
むろん反論はありうると思います。

  • 他の方に対する「氏んでね」という発言は十分ヘイトスピーチではないですか?

ヘイトスピーチではありません。ネット上のエチケットやマナーだとぼくが考えるものを守っていないひとびとへの罵倒です。

  • 貴方は私にご自身が憎まれてると思ったわけですか?

思っていません。

  • また、「現行法で対処できる」と言いますがね、DV防止法を作る時もそう言われましたよ。だけど官僚や警官や検事や判事や弁護士達の多くは、現行法で対処できるのに対処しませんでした。何故だか分かりますか?立法でもしなければ彼らの意識改革がほとんど出来ませんし、彼らが本気で動こうとするのは稀なのですよ。立法でもしないとなかなか対処しませんよ、彼らは。

立法しても「官僚や警官や検事や判事や弁護士達の多く」は動きません。公的組織上の正統な手続きにのっとった指揮系統に従うだけです。
行為Aが発生したとき、警官xはAを違法か合法かを判断することができますが(警官でなくてもできますが)、警官xのみでは正統な指揮系統をコントロールすることはできません。
DV防止法の画期的なところは、法整備の過程で、「プライヴァシー権」をうわまわる不当性を同定するようなコンテクストを社会的につくっていったところです。これは「MLよりblog」を主張する方々も同意するところでしょう。
【5】で「条例も視野に含めた『法整備』ということであれば、効果があると思います」と述べたように、「どの法の適用が妥当か」についてのコンセンサスを得るには、先行する判例がある以上、あたらしい文脈創出以外に方法はないと思います。背反する法が同時にあるようなケースでは(堕胎罪など)、たとえば「厚生事務次官通知」のような「法でないもの」が文脈を構成しています。


【7】今後の展望

「ぼくの意見」をまとめると、こうなる。

  • 「盗撮」の不当性と「盗撮ポルノ」の不当性と「ポルノ」の不当性は(もしそれを主張するのであれば)、それぞれ、ほとんど別の文脈で考えなければならない
  • 「盗撮」の不当性は(および撮影物の営利目的の使用の不当性は)同意するし、社会的にも容易にコンセンサスが得られるだろう
  • 「盗撮」は法というより法運用の問題である。したがって現行法上で取締りがうまくいっていないとしたら、それは法の不備ではなく法運用の不備である。この点を突かなければ現実的なコンテクストを作れない。


今後ぼくが[yamakasa]カテゴリで書いていきたいのは、以下のようなことだ。

  • ポルノの是非、という問題文脈の再検討
    • <ポルノ/非ポルノ>区別の是非と、この区別に対抗していく新たな差異の創出可能性
  • 法整備プロセスと官僚組織のカップリングの検討
  • ヘイトスピーチ」という強い不当性概念を適用できるような、セクシャル・マイノリティ差別の文脈の可視化(同性愛者やサバイバー差別の可視化はかなり成功してきているが、今回のようなペドフィリア差別や、獣姦、インセスト、レイピストなど、膨大な被差別者が「文脈」にのせられていない)

【補】FAQ:知人とメールにて

  • ポルノが「合法的に店頭で購入できること」が「健全」であるという法哲学的な見解の一致がどこにあるのか、僕は寡聞にして知りません。
  1. 法哲学」において
  2. 見解が一致

していなければならない理由がわかりません。
ポルノだろうがなんだろうが、非合法な販売・購入は単に「法で」規制されています。法による規制の是非は、ここではやはり問うていません。法自体が不健全である可能性があるのは当然です。
購入したいものが購入したいときに購入できることは一般的に健全だと「個人的には」考えます。
ちなみにぼくはゾーニングにも反対です。

  • フェミニズムにおいては、制作時の被害への批判は、その直接の被害よりもむしろ、女性が構造的に商品化の対象となってしまう社会の不当性に照準した批判へと読み替えられ、その不当性を言語化しようする試みへと昇華されることが多いように思います。もちろん、私の知る限りでは、こうした試みにも現在のところ結論があるわけではありません。

まず、「女性が構造的に商品化の対象となることの不当性」については、一連の「山笠問題」の議論においてまだ登場してきていません。ぼくもまだ登場させるつもりはありません。拙速だからです。

  • ある言説を「ヘイトスピーチ」であるといいうるためには、そこに差別的な背景がある必要があります。「盗撮ポルノを見ながらぺ○スをしごいてマスターベーションしている変態野郎ども」というカテゴリーが、被差別者のカテゴリーであったことがこれまであった/現在あるのでしょうか?もちろん過去と現在にないことはそれが差別ではないことを意味しませんが

おっしゃるとおりで、現在まで、被差別者カテゴリーであった文脈は非常に少ないです。「ペドフィリア」も同様です。文脈は言説で戦略的につくっていく必要があると思います。

  • ヘイトスピーチ」は、ある国では「表現の自由」に優越するほどの、非常に強い不当性概念です。てぃるるさんの言葉をそう名指すということは、hidex7777にはその言葉の法的規制の是非について論じる用意があるということを含意するほどの概念だと僕は理解しているのですが、それでよいのでしょうか。

サイバースペースでの「ヘイトスピーチ」はまだ法制化の段階に至っていません。また、「ヘイトスピーチ」概念は「表現の自由」に優越する、という法ドグマティク的記述よりも、暴力事件の予防という機能を持っている、という法社会学的な記述が適切であろうと思います。
なぜなら「サイバースペース<と>相互行為場面」という「線引き」があるから(ただしこのとき、「サイバースペースにおいてはヘイトスピーチではない」のか、「ヘイトスピーチだけれどもサイバースペース上なので法適用できない」のか、そのへんはよくわからない)。
個人的には、いかなる表現も制限されてはならないと思っています。

  • ポルノグラフィをヘイトスピーチだと考える理論もいくつかあって、現在ではそうした理論は十分説得的な主張をおこなうまでにはなかなか至っていませんが、それもまたポルノにまつわる不当性を言語化しようとする試みのひとつではあるわけです。盗撮ポルノを批判する相手の訴えようとしている不当性がなんなのかをくみ取ろうとすることなしに、それどころか相手の発言を真っ先に「ヘイトスピーチ」と認定するような議論の進め方は、こうした文脈にあまりに鈍感であるように僕には感じられます。

>盗撮ポルノを批判するてぃるるさんやSさんの訴えようとしている不当性がなんなのか
は、いまのところ確かな推測ができません。
ヘイトスピーチを行なってまでも主張したいことは、あなたにとってなんなのか?」ということが、ぼくからてぃるるさんやSさんに聞きたいところです。

それから、ぼくがふまえている文脈は、

  • ポルノの法規制を議論する場がガチガチに閉じていて、らちが明かない

 #e-groupの某MLです。承認のための【議論】に1〜2週間かかるといわれた。(*後に詳述)

  • 「ポルノグラフィをヘイトスピーチととらえる理論・の・不当性」の議論に入って行きたいのではあるが、「山笠」どまりだし、メンツが足りない。
  • これは大前提ですが、<ポルノ/非ポルノ>区別の不当性がぼくの主張の基盤です。

#ぼくが「ポルノにまつわる不当性」というときは、<ポルノ/非ポルノ>区別自体の不当性のことをいいます。

  • 「制作時の被害を理由とした規制」→「現行法で対処可能」というお決まりの論争には少なくともふたつの含蓄がある。
    • ひとつめは、「現行法で対処可能」は「規制は不当」という主張を、リベラリズムの言語内においても、必ずしも正当化しない。
    • ふたつめは、「制作時の被害」を訴える言説は、実はもっと別の不当性を主張している可能性があることをフェミニズムは主張してきた。
  • このことをふまえるなら、お決まりの論争を繰り返すときには、少なくともこのふたつのことには配慮して話を進める必要がある。

一点目。「規制は不当」という主張はしていない。現実的な規制のコンテクスト創出について議論をしようとしている。
二点目。ぼくも「実はもっと別の不当性を主張している」と考えている。よって、blogという場で対話的に引き出したいと考えた。


【補2】反ポルノはフェミニズムではない

ぼくは、ポルノ・買春問題研究会http://www.app-jp.org/)のMLに参加希望のメールを送りました。

MLには、ポルノグラフィ・買売春に関心のあるすべての方に広く参加いただいているわけではなく、ポルノグラフィ・買売春を人権・差別問題としてとらえる、という基本的な点で会と一致できる方のみに参加していただいています。ポルノグラフィ・買売春の将来的な根絶をめざして活動するのがこの会ですので、そうした方法を採っております。

という返事があり、簡単なアンケートにぼくは答えた。
ぼくの回答はこうだった。

> ④ポルノグラフィ、買売春についてどのように考えているか
> (④については必ずご返事お願いいたします。)

ポルノグラフィや売買春が性差別の要因になっているというよりは、性差別的な布置(フェミニズムのある一派の言葉を使えば家父長制)のひとつの項、それも、この布置の維持に貢献的に表出する、という機能を果たしている項だと考える。

したがって、「ポルノグラフィや売買春を」問題にするというよりは、「ポルノグラフィや売買春に表現されることによって維持されている性差別的な布置を」問題にしたいと、個人的には考えている。

これにたいするAPPの返答は

APP研は、ポルノグラフィ、売買春そのものを、重要な人権侵害、性差別の組織的実践と考え、反対している団体ですので、斉藤さんにMLに加わっていただくことはお断りしようということでメンバーの意見が一致いたしました。せっかくご希望いただきましたが、ご理解願います。要用のみにて失礼します。

というものだった。

ここからわかることは、

  • APPは家父長制への異議申し立てをするフェミニズムには依拠していない
  • たんに「ポルノグラフィ、売買春そのもの」と彼らが考えるものを根絶するという目的のみに取り組んでいる

したがって、

  • 家父長制を存続させることに同意している
  • 「ポルノグラフィ」「売買春」という未定義概念に関する議論は一切行なわずに、政治的活動のみおこなう