声に出して読みたいフェミニズム
募集してるし。
ぼくはこれなんですよねえ。これの前に石井達朗のジャーナルや加藤秀一のジェンダー理論に影響を受けてはいたけれども、「胃の府」にキタのはこれが最初じゃないかな。
近代の法においては、国会に突入するのと、他人の家屋に侵入するのとは(量的に異なるとしても)等価である。国会だからといって特別の罪が付加されるわけではないが、逆に特別の価値もない。実は、それは様々な物が商品という形式におかれる時に生じることと同じである。マルクスの言葉でいえば、その物への欲望が「胃の府から出て来ようと、想像によるものであろうと、ことの本質を少しも変化させない」(『資本論』)。同様に、近代法廷において、人間の行動は、具体的内容ではなくその「抽象的」な形式においてのみ判断される。一方で、それは人間の行動を内容から解放するが、他方ではそれを無内容化してしまう。しかし、そのどちらかだけを都合よく要求することはできないのである。
【略】
たとえば、アメリカやヨーロッパで、初期のフェミニズムはブルジョア・フェミニズムとして批判されて来ている。しかし、ブルジョア・フェミニズムが古いからといって、日本のようにそれすら実現されていない状態で批判するのはおこがましい。それに関して、私はいつも中江兆民の言葉を想起する。
【略】
陳腐であろうと、流行遅れであろうと、実行されていない理論は新鮮である。それを陳腐にし、流行おくれにしているのは「誰の罪」か。もちろん、それは兆民が言うように現在の体制である。しかし、流行を追う先端的なフェミニストやクイアー理論家自身に「罪」はないのか。アメリカやヨーロッパでゲイの運動がどうであろうと、日本で先ずなすべきなのは「陳腐な」こと、つまり基本的人権の実現である。
長いかな。