クリッチリー『1冊でわかる ヨーロッパ大陸の哲学』(岩波書店)
珍しくこっちのページで読書メモを書いてみたいと思う。
大陸=ヨーロッパと英語圏の間に歴然と存在する文化的分裂.哲学もまた,大陸哲学と分析哲学とに乖離し,党派主義に毒されている.著者はカント以後の理性の危機という主題に焦点を当て,この問題の大陸側からの素描を試みる.そして哲学が,分裂を超えて,知を愛し生きる意味を問う,本来のあり方に立ち返る道を探求する.
<大陸哲学/分析哲学>という区別、あるいは<ヨーロッパ哲学/英語圏哲学>という区別が、時代遅れで古いもので乗り越えられるべきものである、またはとっくに乗り越えられているものである、という観点をぼくが初めて知ったのはダメット『分析哲学の起源』(勁草書房)で、それこそ「遅れてる」のかもしれないけれど、だからこそ、まあ、(区別が破棄されているということを)わりと「当然のこと」として受けとめてきたのでした。
ダメットの翻訳以前だと、東浩紀のデリダ論が『批評空間』で連載されていて、それを熱心に読んでいたおぼえがあるのだけど、哲学のメインストリームの言説だと思って読んでなくて(失礼)、そこではわりとあっさりと<大陸/英米>はハイデガーとウィトゲンシュタイン【において】架橋されてしまっていて、読む側としては、区別というか断絶についてはスルーしていました。
それでまあ、戸田山和久さんが『現代思想』2001vol.29-15で次のように言っていて:
……みたいなイデオロギーを分析哲学と呼ぶのだとしたら、そんなものはあんた、21世紀の今日、地球上のどこを探したって残ってないっす。……反形而上学と実証主義が〈分析哲学〉の伝統? ウソ! ためしにこの2冊を読んでごらんよ。……
それで柏端本と三浦本が紹介されていて(勁草ばっかじゃんw)。
そういう前提があったので、今年出たヒューム『人間知性研究』(法政大学出版局)の「訳者あとがき」は「うっぜえなあー」、という印象があったのですね。
良かれ悪しかれ、英語が事実上国際語の地位を得ているいま、英語で展開される哲学の重要性は誰の目にも明らかである。こうした状況のなか、英語圏の哲学を軽視したり無視したりするとしたら、それは歴史と現実のリアリティの見逃しという、知的損失以外のなにものでもないだろう。21世紀を迎えたいま、日本がさらに文化的に成熟するには(以下略)
いや、こうして読んでみるとたしかにうざいんだけどw。哲学業界の内部事情はよくわからないのだけど、社会学だと英語以外は言語じゃないみたいな風潮が確実にあって、それに対して「日本の言説文脈」をきちんとおさえよう/作っていこう/接続していこう、という態度があるのはわかるし共感できるのですね。哲学も事情はだいたい同じようなものなのだとばかり思ってたのですね。
それで、やっと本題なのだけど、クリッチリーの採用する<大陸/分析>区別というのは、ひょっとしたら哲学の門外漢には「わかっちゃいない」特別な――つまり「時代遅れ」とは言い切れない――含意があるのかなあ、と思いました。もはや<ザ・哲学>しかなくて、それはほとんど英語で書かれている、したがって<ヨーロッパ/英語圏>なる区別はもはや「乗り越えられるべき」ようなものではない、みたいなのは――社会学におけるほど*1――あまり簡単に言ってしまえないことなのかいな、と。
もちろん本書を手にとって、パラパラめくっていたときには「こういう観点ってもう古いんじゃなかったっけ?」などという先入観があったのだけど。
まあ、よくわかりません。
目次はこんなです:
「目下の」ぼくの関連箇所は6章なのだけど――すっとばしてそこに行くべきなのだけど――2章でひっかかった。
- 2 大陸哲学の起源―カントからドイツ観念論への道のり
つづく、かも。