『制度としての基本権』メモ&疑問点
独断論Dogmatismus
独断論とは「形而上学において純粋理性を批判することなく成果を収めようとする偏見」のことである[BXXX]。つまり人間理性は何を、いかに、どこまで認識できるのか、この点に関する「理性能力についての先行する批判」のないまま、理性を用いる態度を意味する[『純粋理性批判無用論』VII 226]。独断論という言葉は批判前期の著作には見られない。しかしこれを予期させる考え方はすでに批判前期にも見られる。『視霊者の夢』の結部でカントは形而上学の課題を「人間の理性の限界に関する学」に見る。このような主張はカントがヴォルフやクルージウスらの「空中楼閣師」[『視霊者の夢』第3章]の哲学を、いま問題にしている意味で独断論と見ていたことを含意する。しかしカントの哲学自身、その哲学的発展の最初期にあっては独断論的合理主義の段階にあったとみなされることがある。
Dogmatismusはその訳語から察せられるように、カントでは主として否定的意味で用いられているが(ただしアンチノミー論に「純粋理性の独断論」という表現が見られるが[B 494]、これは必ずしも否定的な意味で用いられてはいない)、これとdogmatisch(「定説的」)とを混同してはならない。カントもこの点を注意している。「批判は独断論に対立するのであって、学としての、純粋理性の認識における理性の定説的な方法に対立するのではない。というのも学とはつねに定説的である、つまりアプリオリの確実な諸原理から厳密に証明することだからである」[B XXXV]。この定説的という概念の用法は、遠くは「教説(Dogma)」という語の用法に繋がるものがあろうが、近くはヴォルフの用法に従う。ヴォルフは確実な原理から厳密に論証された命題を「定説(dogmata)」と呼んでいる。また彼は人間認識を事実的認識、哲学的認識、数学的認識の三つに分類したが、これらのうち事実的認識に対する哲学的認識を時に「定説」とすることがある。事実的認識がアポステリオリの認識であるのに対して、哲学的ないしは定説的認識はアプリオリの認識である。したがって定説的認識とは、経験によらないで概念によってアプリオリに推理して得られる認識のことである。この意味での「定説的」の用法はカントでは初期から晩年にまで一貫して見られる。初期から一例だけをあげれば、『視霊者の夢』の第一部が「定説的」、第二部が「事実的」とされている場合である。しかしDogmatismusとdogmatischがまったく無縁であるわけではない。カントによれば独断論とは「理性が久しく用いているままの原理に従いながら、何によって理性がそれらの諸原理に到達したかの仕方の権利も調べることなく、概念(哲学的な)からする一個の純粋認識によってもっぱら成果をあげようとする不遜」のことだからである[B XXV]。
さらにカントは形而上学の歴史を定説的・懐疑論的・批判的の三段階に分けることもある[『形而上学の進歩』]。ここで「定説的」には、うえで述べたdogmatischとDogmatismusの二義が込められており、カント以前の哲学、とくにライプニッツ/ヴォルフの哲学が考えられている。また定説的/懐疑主義的の二項対立には、古代以来のドグマティコイ対スケプティコイの対立関係も踏まえられている。
(山本道雄)