準備

まず準備として、自分の一番好きな絵本を思い出してみることにしました。それは『マーリャンと魔法のふで』という中国のお話らしく(「らしく」というのは、ググってみて初めて知ったから)、現在では↓で読めるようです。

世界のむかし話 三年生 学年別・新おはなし文庫
とき ありえ (著)

『マーリャン』はぼくが子どものころ(たぶん幼稚園に入るか入らないかぐらいのころ)に、お父さんが会社勤めに行っている時に絵本全集のセールスマンが来て、お母さんとぼくが「買っちゃおうか」とか言って、全50巻ぐらいの絵本、というか、左ページに絵が描いてあって右側に文章が載っている児童小説集みたいなのを買ってもらったその全集の中の一冊で、ぼくはまったく手も触れようともしない本が何冊かあるのにこの本だけは何百回と読んだのだった。

あらすじは、絵の天才少年マーリャンが魔法のふでを手に入れ、その魔法の筆は描いたものが現実化してしまうというもので、それで悪代官(中国だから代官じゃないか)をやっつける、みたいなもので、ようするに後の『ドラえもん』体験の下敷きをつくるものとして機能したのだった(いまドラえもんが一発で変換できてすごいと思った)。

しかし、『マーリャン』はおそらく実家の押入れ奥深くに眠っており、締め切りってないのだろうけれど、明日書きたいのでこれについて書くのは却下だ。残念。ぼくが将来、えらい学者さんになって雑誌に文章を書いたりして「あいつも商業誌に書いたりする自堕落な学者になったもんだ」とか陰口を言われるぐらいになったときのためのネタとしてとっておこうと思う。

さて、関係ないはなしだが、自分の過去恋人を振り返ってみると、いわゆる「絵本好き」が多かったように思う。絵本の出版社に就職した子もいた(ああ、こんなときに知恵を借りられるように、連絡が取れなくなるような別れをしなければよかった。……まあ、そんな反省から、サステナブルな恋愛を指向するようになったのだけれど)。

「絵本好き」の女というのはどういう女なんだろう。「斉藤さんの歴代彼女って、やっぱりみんなオリーブ少女だったんですか?」と、先週、修士課程でモード論を専攻しながらも現在オリーブ少女の歴史・文化社会学的考察に関心があるKさんに聞かれた。

ぼくは現在の自分の身なり(あごひげをはやしている)を「説明」するための「物語資源」として、「うん、そうだね」と答えたのだけれど*1(そして「ぼくの世代は男も『オリーヴ』を買ってたんだよ。ぼくは買ってなかったけど」と世代論的重要インフォーマントとしてアピールすべく答えたのだけれど)、「みんな」というのは言いすぎだ。正確には、「3分の1ぐらいはそうだった」。あとはどちらかというとキューティ系やエキゾ系(バリでフィールドワークする子とか)か。「愚かな人妻」というのもあったな。どうでもいいか。

で、「絵本好きの女」はけっして「オリーヴ少女」とは限らなかった、と思う。絵本の出版社に就職した彼女は「バリの子育て」で卒論を書いた子だった。『ぐりとぐら』を教えてくれたのもその子だった。

おそらく『絵本』は児童文学のいちジャンルで、「子どもの誕生」によって成立したんだろうと思う(仮説)。だからアリエスの正確な読みと、アリエス批判の正確な読解が必要になるのだろうけれど−−そして社会学的な絵本読解にはその辺のことが求められるのだろうけれど−−情けないことに、実はその辺の事情に疎い。ルーマンの論文「教育メディアとしての子ども」にはかなり啓発されたけれど、あれも「アリエス批判」にはそれほど目を配ってなかったように思う([プレモダン:小さな人]→[モダン:大人と子どもの区別の成立]という図式は、歴史社会学的にはそう単純に言えないらしいのだ)。

で、とにかく手元にあるものでなんとかしなければならないとおもうのだけど、『うろんな客』などは柴田元幸が翻訳してしまって、インテリ臭がする(そしてオリーヴ臭い)ので、どうも鼻持ちならないものになってしまった。面白いのだけどねえ。

*1:自己否定に自己否定を重ねて、こんな曽我部恵一みたいなのにたどり着いたんだよ、と。ほんとうは遊び友達がみんなヒッピーになってしまったからなのだけれど、「自己物語論」的には、そういうものだ。浅野さんの本を読もう。