自己意識

あーちみちみ、それは↑カワモト大先生のロジックなりよ。
カワモト先生いわく、「自己言及を云々する香具師[含ルーマン]の議論はすべて、自己を前提にしている」と(大意)。──んなわけはないでしょうに。


「自己意識」というのは、

  「自己の意識」

でも、

  「自己についての意識」

でもなくて、

  「Xについての意識」についての意識

のことですわな。

なので、「自己意識」を云々したからといって、「自己」を前提としているという話にはならんのですな。

なぜってあなた。

オペレーションの連鎖のことを自己と呼ぶのであって、自己があるからオペレーションの連鎖がおこるわけではないからですな。

コミュニケーション が システムである のであって、システムがあるからコミュニケーションが生じるわけではないのと同様に。

そして、自-他が区別されるとすれば、それは、その当のオペレーション-によって・をとおして-なわけで。

なので、そこで謂う所の「自己」について、端的に「人格性」を云々することはできないのではないですかな。

ま、「人格性」の規定にもよりますが。

いやいやいやいや。
  「Xについての意識」についての意識
という心的事象が創出したときに、それをなんで他のいかなるものでもなく「自己」であるとみなす(ようなオペレーションが創出される)のかといえば、帰属したい(から)なんではないですかね*1*2
「オペレーションの連鎖のことを自己と呼ぶのであって、自己があるからオペレーションの連鎖がおこるわけではない」は
「オペレーションの連鎖のことを意識と呼ぶのであって、」といった方がよいと思う(「呼ぶ」の主語がかかる意識を「自己意識」と観察する)。
かかる諸オペレーションが「連鎖している」という観察があってはじめて「自己」−「同一性」が観察されるわけで、だから、カワモト大先生の言い方も間違いだと思うし(ルーマンが自己を前提としているのではなくて、オペレーションが自己を前提としているように観察されるのでしょう)、同一的なものの観察にあたっては同一である帰属先が要請される、のではないでしょうか。この帰属先は「実際には」同一でなくても、ブレててもよいかと思いますが(だから超越論的統覚O)。



『追記』

「他のいかなるものでもなく「自己」であるとみなす」んじゃなくて、オペレーションの連鎖が「自己」なんだってばw。

はい。それはよくわかっておりますです。

「なんで?(=根拠)」とか「みなし」とかいうもんは、──オペレーションの連鎖が相当に複雑化したうえで、しかも相当に特殊な条件でしか登場しない、いずれにしても──あとからしか登場しないなにものかなわけで。そういう「あとからの倒錯」を、「根拠」と呼ぶのです。

オペレーションの下には──上にも 外にも──「なにもない」のですよ。

いいかえると、「環境がある」のですよ。

そう思います。

ここで「自己」という言葉を使うのがキモチわるければ、使わなければいい。(使わなくても話はできるし。‥‥だけどそれは、「言葉の問題に過ぎない」のではないか、と。)

なるほど。(しかし「自己」という言葉をキモチ悪がらない人の気持ちがわからない……)

||そのような「言葉の定義」がどうやって発生しているかに関心があるのでした

「倒錯によって」でしょうな。

トートロジーだけどw

同意です。

|かかる諸オペレーションが「連鎖している」という観察があってはじめて「自己」−「同一性」が観察されるわけで、

そうですな。

だから、「自己」の話と「自己同一性」の話は 違うハナシなのだ、というわけです。

ええっ!!そうなのか?!
じゃあそもそも「連鎖」も「自己」も必要なく、「オペレーション」のみが(概念として)あればよいのではないでしょうか?!



……つーかぼくウザイ??そーですか失礼しました!!

ぶりちさのドイツ語コメントは、辞書引いてから検討します(w

*1:括弧付なのは「から」が因果的説明になってしまうから。

*2:いやまあ、言葉の定義上、それは自己じゃん、というのはわかりますが、そのような「言葉の定義」がどうやって発生しているかに関心があるのでした