「煙草異論」関連/id:chaikaさんのコメントへの反応

chaikaさんのエントリは、疑問や問いかけではないので、それについてぼくがここで何か述べるのも変な気はしますが、この話題が拡散し、誤解・誤配され、収拾がつかなくなることをぼくは望んでいますので、そういう方向でなにか反応してみようかと思います。

といっても例によってたいしたことを言うわけではありませんが。

ただ、もともと対話がほとんど不可能であったり、話せば話すほどお互いに分からないことだけがわかるという状況においても、お互いが対話を放棄した瞬間、それは単なる折伏合戦になってしまうし、そうやって両極端どうしが情緒的・身体的な面に訴えかけるようなやりかたで争った結果として、ちょうどいいバランスに落ち着くのかといえば決してそんなことにはならず、現にいま、世論は行き過ぎた嫌煙側に傾いている気がします。

決して運動の意義を否定するわけではないのですが、喫煙者でもなく嫌煙者でもないわたしには、運動をしようという気はおこらないし、また、運動をしている人のパフォーマンス的な言説には違和感を感じることが多いです。だから、わたしができること、すべきことといえば、両者が政治的な目的で確信犯的(誤用)に行っている(かもしれない)主張のおかしさについて、いたって凡庸でふつうの、小市民的な疑問を投げかけつづけることなのかもしれません。

この機会にぼくがid:hidex7777:20030929#p1(以降)で述べたことを再定式化してみましょう。

  • 社会的事象は因果的に予測/説明できない

もっとも普遍化していえばこのようなことが、「いいたかったこと」*1の第一番目です。敷衍しましょう。

    • 目標となる社会状態を規定してこれをs2とおき、現状を規定してこれをs1とおき、s1→s2の状態遷移を促す要因x1、x2……xnを導出することは、社会的事象に関しては不可能である

なぜか?

      • s1を導出する文脈が無限にあるため、s1の導出が不可能
      • s2を導出する文脈が無限にあるため、s2の導出が不可能

かかる不可能性は、物理現象に関しては(ほとんど)あてはまりません。

たとえば薬学において、薬品Aに薬品Bを混ぜたときの反応(状態遷移)は、分子結合以外の文脈が「括弧入れ」されます。かくして、「相関correlation」概念が有意義となります(薬学の分野では、有意検定はたいてい1%水準で行われます。社会学では5%など)。相関関係は統計上の技術で、「xとyの間には相関関係がある」などとよく言われますが、これは文字通り共変関係であり、統計学的には「x←→y」という関係しか発見することができません(相関係数をrとすると、rはx→yについてもy→xについてもいうことができる)。

しかし科学は因果性の発見を行わなければならない。そこでこの「相関関係」は、「因果モデル」で解釈されることになります。つまり、「x←→y」という関係から、「x→y」という関係を導出する作業が必要となります。上記の化学反応では、「熱力学の第二法則」(時間的な不可逆過程)という文脈がこの作業を支えます。薬品Aに薬品Bを混ぜる、という時間的な過程が示されていて【1】、遷移した状態間の相関関係の有意性が示されていれば【2】、科学者共同体は「熱力学の第二法則」を反証されていない「真理」として認めている【3】がゆえに、最終的に「x→y」の因果性が認知される、というわけです。むろんこの作業の大前提として、【4】分子結合以外の文脈が「括弧入れ」されている、という、最低限の手続きがふまれている必要があるわけですね(ようするに、「ちゃんとした」実験だったのかが信頼されていなければならない)。

社会事象を扱う科学は、たいがい【2】のみばかりを示すだけで、他の必要不可欠な文脈をすっとばす傾向があります(とくに【4】に注意をはらう社会統計家、及び査読者、読者はほとんどいません)。統計データには注意しろというのはこういう意味です。

長くなりましたが、第一にいいたいこと、のまとめです。

  • これこれの運動なり異議申し立てをしたから、望ましい社会状態になるだろう、などということは、ロマンチックに幻想することすらできないし、するべきではない
  • 望ましい社会状態についての合意はありえない
  • 現状がいかなる社会状態であるのかの合意もありえない

このように命題化してみせたところで、なにか指針が見えてくるわけではありません。が、指針を求める態度への軽蔑を育む指針、にはなるのではないでしょうか。

つぎにぼくがいいたかったことの第二、です。

  • 命令・権力・遂行、といったものは、それらがコミュニケート可能である限り、命令主体の空虚化をも遂行している

この命題は次の命題と対になっています

  • コミュニケーションを理解する観察者は、みずからが関わっている「相手」の空虚化を遂行している

同じことを言っているに過ぎませんが、これは矢部氏のつぎの発言に注目する方があまりいらっしゃらないようなので、ぼくはここを強調しておきたい。

人間と街との主従関係をはっきりさせ、自分が主人であることを肝に銘じるために、街路に吸殻をまき散らす。

あらためて確認するのもうんざりですが、千代田区条例は「人間」に対して「路上」に屈従せよという命令です。この時点でこれがいかにばかげていてかつ恐ろしい命令であるかに気づかなければまともな「人間」ではないはずなのですが、さまざまな文脈があるようで(嫌煙2ちゃんねらなど)、うまくいかないようですね。

いいですか?これは「煙草を吸えば健康に悪い」とか、「副流煙は他人に迷惑」とか、「ポイ捨ては美観を損ねる」とかといった問題とはまったく関係ないことがらなのですよ?たんに、

  • 《あるコミュニケーション》があり、《ある命令》として理解され*2、《具体的で現実的な行動上の選択肢・という文脈》を構成している、

といった事態が生じているだけなのです。

喫煙者だろうが嫌煙者だろうが、ゲイだろうがバイだろうが、労働者だろうが資本家だろうが、このような事態に対してはっきりとした嫌悪感を抱かないのであれば、ぼくは「おまえはバカとか以前に、人間じゃない」と申し上げますよ、といいたいのです。

いや言い過ぎました、ごめんなさい。わかりやすく言い換えましょう。

「禁煙」と書いてあった。煙草を吸っている人がいた。それをみたS氏は、「ここ禁煙ですから吸わないでください」と呼びかけた。さて、

    • S氏に「呼びかけ」の動機付けを与えたモノはなんでしょうか
    • S氏の「呼びかけ」は正当でしょうか
      • 正当であるとしたらその正当性は何によって担保されうるでしょうか
    • S氏は何に呼びかけられているのでしょうか
    • この喫煙氏は煙草を吸うのをやめる必要はあるでしょうか
    • この喫煙氏が煙草を吸うのをやめた場合、ここでいったい何が起きたのでしょうか
    • 喫煙氏は何に呼びかけられているのでしょうか

もっとひどい言い換えをしましょうか。

  • 「死ね」と書いてあった。死んでない人がいた。それをみたS氏は、「ここ死ねですから、死んでください」と呼びかけた(以下略)
  • 「死ぬな」と書いてあった。死んでない人がいた。この人は「死ぬな」という《命令》に従ったのでしょうか


そしてぼくがいいたかったこと、第三です。

  • 勝手にやればいいではないか

これは矢部氏も書いている言葉ですが。
「禁煙」と書いてある領域で煙草を吸うのをためらう奴は、どうしようもないバカ野郎だと思います。実際、あまりいませんよね、禁煙だから吸わないという人。頭の悪い学生ぐらいで。「ユリイカ」2003年10月号は、こういう頭の悪い学生でいっぱいの日本社会を憂う、憂国の士の文章がたくさん載っているので、ぜひ読んでみてくださいね。


ぜんぜんchaikaさんへのリアクションになってないですが、そろそろ何かこの件に関して書いてみたいな、と思っていたので、チョコット書いてみた。

*1:というより、読み取られるべきこと、でしょうな。

*2:厳密に言えば、「理解」される(=<情報/伝達>−差異が観察される)ことによってコミュニケーションとなっている。