Do-ingネタ、お返事/「煙草異論」関連

id:flurryさん

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へのお返事です。

a)
 元の文章(200403.html#02_1)で僕は、「問題の複合性に追い詰められた喫煙者たちが、ほとんどアクティング・アウト的な反抗を強いられている」みたいなことを書いてしまいました。これは僕の先入観もあったけれど、

http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20030929#p1
ぼくが気になったのは、彼らが動物的にならざるを得ないほど状況が「ヤバイ」ことになっていて、苦渋に満ちた倫理的抵抗を当為とするような、権力関係の渦にわれわれはすでに巻き込まれている、

という部分に引きずられてしまった所もあります。
 「爽快なアクティヴィズム論」と「アクティング・アウトを強いられている」というのは、同じ状況をポジティブに捉えるかネガティブに捉えるかの違いにすぎないのだろうか。どうだろう(←自問)。

引用の、ぼくが書いた部分を読むと、たしかに「アクティング・アウト」(言葉にできずに行動に出てしまう)のように読めますね。というか、そうとしか読めませんね。
となると、こういう軽薄な文章を書いたぼくが、ひらきなおって謝るか(訂正するか)、とりつくろうかを選択しなければならない、ということですね。
もちろんぼくは「とりつくろう」ほうを選択します。
ということを前提に、以下。

b)

http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20040218#p2
動物化するとは、したがって、複合性の負担をうっちゃって(貧しくして)、人間達(=ここでは禁煙推進派)の構成した複合性を無視した行為遂行を意味します。

では、動物化は複合性の負担を放り出すやりかただと書かれていて、

http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20040303#p1
複合性負担のひとつのやり方として、「脊髄反射的=動物的な戦略」を選ぶこともありうるだろうと。


では、「複合性負担のひとつのやり方」だと書かれている。
 僕なりに考えると、これは
「お前ら(禁煙推進派)が持ち出してくる複合性なんてポイだ。でも、誰も複合性自体を放り出すとは言ってないよ。俺たちは俺たちなりに複合性を負担する。でもそれは俺たちの流儀でやらせてもらう。動物的にな」
というように読めるのだけど、それでよいのでしょうか。

 ところで、動物的戦略によって「複合性」の負担を行うという発想(あいかわらず僕は複合性の概念がよくわかってないんでアレですが)が良く判らないのですが。

ここは、「複合性の負担をうっちゃう」ことはすなわち「複合性負担のひとつのやり方」である、というぼくの考えで書きました。

かなり説明が足りなかったと思います。

より、正確に書き直すとすると、「複合性の強いてくるコスト負担処理の、ひとつの方法として、当該複合性を単純化し、コスト配分の再分配をおこなう」とでもなるでしょうか。<とはいえ、おそらくこんなことを言っても何も言った(説明した=複合性を縮減した)ことにはならないでしょう(「複合性」は普通「複雑性」と訳されます。flurryさんのいう「エコノミー」は、「複雑性の縮減」です。といえばニュアンスはわかってもらえるでしょうか)。

複合性(complexity)は、意味の多重性*1のことです。ぼくが「複合的」という言葉を使った部分は、

「路上禁煙問題」は、たんに「ポイ捨てしたり嫌煙者の前で平気で吸う奴がいるから、法や条例で取り締まろう」という「単一の権力者の命令」に還元されない、複合的な問題です。

という部分です。ここでは<単一←→複合的>という対概念で用いています。ただし、(前回言ったこととここは矛盾するようですが)<単一←→込み入ったcomplicated>ではありません。込み入っているだけであれば、分析によってその「多義性」を洗い出すことができる−−いまだ発見されていない変数をこれから発見することもできて、したがっていずれ「実証」することができる−−ことになりますが、複合性概念の要点は、無限に意味を産出することができる*2、ということですから、実証できるような「こみいったもの」は、単に「単一的なもの」(というか、同一的なもの)にすぎない、というわけです(以上、概念説明*3)。

前回、複合性は「ややこしさ」と捉えてもらってかまわない、と述べたのは、複合的なものはたしかにややこしいからです。ただし、厳密に言うと、ややこしいからといってそれが「複合的」であるとは限らない、というわけです。

もとの文脈にもどると、<嫌煙派/喫煙派>という「区別」が有効であるのは、この複合性の縮減の負担の差異、コスト配分の差異があるからに他なりません。

嫌煙派は、複合性の縮減というコストを負担しているわけではありません。かれらにとっては、端的に「複合的でない」だけです。

ぼくがあのような文体で、蓮實や矢部といった「青土社系」の言説をあのようにとりあげたのは、かれらはこの負担の落差に気づいている人達だから、という単純な理由からです。まさか『ユリイカ』誌を読んで、蓮實が実際に吸殻撒き散らしをしていると思った読者はいないと思うのですが、「吸殻撒き散らし」という「想像力」は、この落差を可視化するものとして評価できる、と思いました。

ただ、余計なことを言うと、「嫌煙派、氏ね、ボケ」という喫煙者のむかつきにカタルシスを与える言葉として紹介してみた、というのが当初のぼくの動機です。カタルシスだけじゃだめなんだよ!というのも正直なところなので、まじめに読んで、「なんでこんなこと言うのかわからない」と反応してくださる方(churosさんですね)がいたのは、嬉しい誤算でした。

c)
 いささかぶしつけな質問をさせていただくと、
「でもやっぱり、『路上に吸殻をわざとまき散らす』たぐいの抗議行動の、メリットとか意義とかが良く分からないのですが?」

http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20030929#p1
というわけで、彼らばかりに負担を負わせてはいけない。ぼくたちも、明日から、いや今日から吸殻集めからはじめよう。そして、千代田区に満ちた憎悪のスパイラルを「まき散らし」の儀式で静めるのだ。

まあ、これは半ばジョークなのかもしれませんが、僕が千代田区の路上を清掃する立場だったとしたら、喫煙者に対して憎悪をもう一段階深めるだけのような気がします。

逆に言うと、たかだか清掃人の反感をかうだけでしょう、と思います。

ジョークに聞こえるかもしれませんが、実際に「撒き散らし」をすれば、清掃の雇用創出になります。そのコストは当然税金から負担されるわけですが、そうすれば「話題」になりますよね? それこそがスペクタクル政治の、短期的目標であるのだ、ということはできます。

また、別の角度からいうと、これは「抗議行動」ではなくて、「嫌がらせ」です*4嫌煙者なんて、バカで死んだ方がいいカスなのですから、嫌がらせをしたって、別にいいではありませんか。ぼくはそう思います。

*1:という言い方もよくなくて、デリダから借りて「散種性」とでもいわなければならないのですが、そんなことを言っていると、ますます「縮減=エコノミー」の負担にさらされるので、おいときます

*2:「多義的」なのではなく、「無限」であるものは、実証[実定]することができません。数学者のflurryさんの前で「無限」などと口にするのは恐れ多いのですが

*3:元ネタは馬場靖雄ルーマンの社会理論』(勁草書房)です

*4:むろん「抗議行動」に見せかけなければならないわけですが