ポジティーフ

お市

【あらすじ】

http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20040223#tg1_6_5
六−5:それはとりわけ制度と自由とが倫理的に重なり合って関係していた様式を変える。
↑なんのことだかわかりません。

BBさん訳http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20040224#p1
それによって、倫理において制度と自由とが相互に関係づけられていた、そのスタイルも変化することになる

http://d.hatena.ne.jp/contractio/20040224#p4
前の章、[五-7]も参照のこと。

自然法倫理学」のゴールデンタッグ(の崩壊)のことを謂っているのだと思われます。

http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20040224#p6
『信頼』の索引には「自然法」がなくて、「倫理学の信頼原則」が

  • 2,144,159,160

とあります。ちなみに2頁には

信頼の必然性は、正しい振舞の規則を導き出すための、真かつ確実な基盤とみなすこともできる。もし信頼しない場合の選択肢が、混沌と全身を萎縮させる不安だけであるとしたら、人間はその本性に応じて、もちろんなんでも盲目にというのではないけれども、何かを信頼しなければならない、ということが導かれよう。こうして倫理学的あるいは自然法的な格率が、つまり対立物の許容を組み込んだ原理が導出されるが、この原理の実効性については大いに争われている。

とあります。で、160ページで「みずからの対立物をともに許してしまう道徳的な原則」といわれるのが、おそらく「倫理学的あるいは自然法的な格率」なんでしょうね。で、

このような格率の軌範的性格は、すでに内容的ならびに社会的な複雑性が大幅に縮減された状況が予期されうる場合にのみ、そしてその限りにおいて有効である。

と。これは法や組織の領域ではあてはまるかもしれないけれど、

概して、今日の社会的世界は、行為理論としての原則-倫理学を認めるにはあまりに複雑になっている。

http://d.hatena.ne.jp/contractio/20040224#p4
自然法倫理学(のゴールデンタッグ)」については──素朴に答えてみると──、その理解でよいのではないかと思います。【ゴールデンタッグの崩壊】→【「法の実定化」&「倫理学の実定的-諸科学への解体」】ということで(まとめて:解体←→「実定的なものpositives」の登場)。*3。

*3:そういえば、『言葉と物』──クワインのほうじゃないほうの──のテーマ(の一つ)も、これ(実定的なものpositif)でしたな。


【実定的なもの】
前置きが長くなりましたが、フーコー『言葉と物』の(訳者による)事項索引が興味深いですね。

  • 実定性、実定的領域 positivite

フーコーは『言説の秩序』(邦訳名『言語表現の秩序』)のなかで、言説(ディスクール)の「断言する力」を説明して、「それらに関して真または偽の諸命題を肯定しもしくは否定しうるような、客体の諸領域を成立せしめる力」と述べ、その「客体の諸領域をpositivitesと呼ぼう」とつづけている(原文71〜72ページ)。こうしてみるとフーコーのpositiviteは、「言説(ディスクール)の成立を可能にする場およびその場の持つ性質」というふうに見ることができるであろう。この場合、この語はコント的意味をもちえないゆえに「実証性」という訳語は用いられない。もっとも、「実証性」の意味でpositiviteが使用されている場合は、「実証性」の訳語をあてた。

  • 実定的 positif

「実定的」の訳語についての説明は、「実定性」の項を参照にされたい。「実定的」という場合、「実定性、実定的領域」に対応する形容詞として用いられているのである。ただし、positifという語は、コント的意味での、「実証的」negatif(否定的な、消極的な)に対立する意味での「肯定的」「積極的」、数学用語で「マイナス」にたいする「プラスの」、具体的、効果的という意味での「明確な」などの意味を賦与されて使用されることもある。そうした場合には、そのときどきに応じて以上の訳語を使いわけた。

とあって、どういうわけか「コントの実証的」とは違う、ということを強調したがってるんですよね。

これに対し、フーコーはまさしくコント批判をおこなったのだという論陣をはったのが

あたりだ、という位置づけでよいのでしょうか。自分のレポートの再利用ばかりでアレですが↓

人格を目標とする近代の権力は、社会学テクノロジーと密接な関係をもっている。酒井隆史は、なぜ19世紀に社会学が可能になったか、そしてその権力との結びつきを次のように論じている。19世紀ロマン主義の特徴は、〈社会〉というひとつの実体が誕生したことである。巨大な有機体としての社会=身体corpsは、個としての人間を組み込み、「このわたしのかけがえのなさ」は、分業システムの中の一つの位置を確保することで実感されることとなる。つまり、同質的・均質的なものとしてではなく他人とは違う「このわたし」*1。19世紀の人間像は、決定的に社会・歴史に内属している。ここにおいて、人口−統計学と確率論とがむすびつくことで、統計学的因果性が社会学と国家権力に導入されることになった 。人口−統計学と確率論は、18世紀以来の

人口に照準を合わせた権力の台頭と共に浮上していた〈社会〉、すなわち固有の規則性・リズムを備えた集合的身体(社会体)を完全に表現するテクノロジーを与えた。……逸脱、異常が危険なものとなるのは、社会にとってである。だがここでいわれる〈社会〉とは19世紀になってやっと浮上してきた日付けを持った対象であり、この〈社会〉の成立の可能性がなければ、危険性もありえない。(酒井[1998:111])

かくして、危険な個人は社会にとっての危険となったのである。

酒井[1998]というのは初出で、上記の『自由論』に多少書きかえられて載録されてますね。
ぼくは酒井隆史は米谷園江のパクリじゃんと思っていたのだけど−−米谷園江 1996 「ミシェル・フーコーの統治性研究」『思想』(870).があったから−−米谷さん(現・重田さん)自身は上述の『穴』本で、『自由論』で取り上げられたテーマを別のやり方で考えようとしたらしく、「へ〜」、です。

この引用の前に、ぼくはルーマンを引用していたのでした。

今や社会秩序の地平において拡散しつつある行態予期は統一的な構造の中では調整されえなくなっているので、もはや異論の余地のない制度的な行態範型に訴えることができなくなっている問題に対して、ますます個人的、人格的な問題解決が発見されねばならなくなった。

18、9世紀という過渡期においては友情というものが強調され……このような発展の終末である19世紀には、社会学と「ダンディ」なる人間類型とが現れた。人格性は今や個人として……理想化された。

『制度としての基本権』

えーと、で、なにがいいたいかというと、今日こそは図書館に行くので、この論、続きます。

*1:ジンメル「集団の拡大と個性の発達」『社会学』328頁