kei1982さんへの返答

ガンダム・オペレーション第3巻

■一で使われている用語は、【社会システムの理論≒包括的社会システム(の理論)】【社会理論≒政治システム(の理論)≒政治社会の理論】という理解でいいのでしょうか?

概念上の区別として<(全体)社会/機能的に分化した部分システム>をまず念頭においていただきたいのですが、しかしこれは後にルーマンがいうように、近代的な社会はそうなっているよ、ということですよね。この論文(講演)でのルーマンの課題は、機能的部分システムをシステムとして考えるように「(全体)社会」Gesellschaftをもシステムとして考えることができるだろうか、ということです。

これに対し古代ギリシアでは<社会=政治システム>であったと。単一社会システム理論とでもいえばよいのかな?当時、社会について考えるということは、政治について考えることを意味していた。これは、

  • 社会理論的には、包括的な「ひとつの」社会を把握することを含意し、
  • システム理論的には、<「ひとつの」全体=目的/その要素・部分=手段>という把握を含意していた。

社会理論とシステム理論の【競合】とは、ここでは「政治システムという特殊な機能的システム」について考えることと、「社会という全体」について考えることが短絡されている、というほどの意味だと思います。

しかしアリストテレス的解決法はいまや採用できない、部分について考えることは全体について考えることではないし、逆もまた、というわけです。

この節はそのような問題設定の提起というわけです。ですから、<社会システム理論/社会理論>の区別ではなくて、<社会理論/システム理論>の区別がまず大事で、そこから<社会システム理論>を導出するにはどのような可能性があるか、ということを論じたのがこの講演なのだと思います。

■また五-1,2,3の議論は、かつては社会の複雑性が少なかったため意味的創造物が社会を統合しえたけど、複雑性の増した社会では意味的創造物も一部分システムに成り下がる他なくなっている、という理解でいいんでしょうか?

「成り下がる」というと「縮小した」ようなニュアンスにきこえてしまいますが、「分化した」、したがってひとつの意味創造物ではなく複数の意味創造物へと意味規定の機能が分散化した、という意味でなら、その通りだと思います。ちなみにハーバーマスいわく:

かれ〔ウェーバー〕は文化的モダニティを、宗教や形而上学の中に表現されていた実体的理性が、三つの自立的領域に分離されることとして特徴付けた。すなわち、科学、道徳、そして芸術という領域である。それらが区別されるようになったのは、宗教や形而上学の与える統一された世界観が崩壊してしまったからだ。
「近代??未完のプロジェクト」

というように、社会学ではおなじみの図式ですね。この「科学/道徳/芸術」の区分というのはもちろんカントの『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』に対応していて、現在でも日本の大学の哲学科は哲学専攻・倫理学専攻・美学専攻の三つに分けられていることが多いですね。

■最後に七-6での「人間の発達経過のなかで社会的複雑性、即ち可能的体験や行為の数や種類が増大するのである」とは「人間が幼児から大人になっていくにつれて可能的体験や行為の数や種類が増大する」と解釈していいんでしょうか?

いやー、ここは「社会進化」のハナシをしている箇所なので、「人間の発達経過」は「社会・文明の発達経過」という意味で言っているのでしょうね。もちろんシステム理論的には個体発生についてもいうことができるのでしょうが、ここではそこまで含意して言ってないと思います。

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眠いですが、洗濯物をほして、図書館行って原著借りて、バイと行ってきます。それからyoru_hikaruさんのコメントにコメントしたいと思います。
【追記】

邦訳されたその一文だけを取り出すと、確かにそう読めそうな──そしてそれ以外の読み方はできなさそうな──気がしますが、そう読んでしまうと、その文が 周囲の文と どう関係するのか理解できないですよねぇ。
てことで、よくわからんので原文の掲示を希望。

す、すいません!!昼寝してしまいました!!ぽかぽかしてたもので!!明日は、必ず、図書館、行ってきます!!(あ、でも原著持ってる方がいればぼくが掲示しなくてもよいのか>どなたか?)

[NL][TGoST]yoru_hikaruさんへの返答

・三 の3段落目:「世界は選択作用によってその都度選ばれる注意領域に切り詰められるのではなく、むしろ世界は他の諸可能性への指示の地平として、従って関連のある他の選択のための領域として保存されるのである。」

→よくわからないが、がんばって考えてみた解釈。たとえば私が手を叩くという行為をしたとして、「そうではない可能性」として保存され(ることで当該行為に意味を与え)ている領域が「世界」である。

このルーマンの一文は曖昧だと思いました。
【解釈A】 <手を叩く(cl)/叩かない(?cl)>という選択(=clD、とする)のうち一方(cl)が指示されたときでさえ、その反対領域(?cl)は、clDという「地平」として「保存」される。という解釈。
【解釈B】世界内においてclDなる選択作用(注意領域=地平)が選択されたとしても(なにかが発生したとき、そのなにかに対して「手を叩いた/叩いてない」という観察が行われたとしても)、そうでない領域=地平(たとえば<蚊を殺す/殺さない>など)が無限にありうる、という、その可能性が世界には「保存」されているのだ、という解釈。
吉澤夏子さんなどはBのみの解釈でルーマンぶった切り、という気がしないでもないですが、どちらもありうる(つまり両方を含意する)とおもうんですよね。なにしろ世界ですから、なんでも保存されているわけで。

→さらに後述の「社会」概念と「世界」の位置付けも気になります。

世界は無限に複雑で、つまり無規定なので解釈できないのに対し、社会は解釈図式を提供することで規定・解釈可能性を生み出している、そしてその社会は世界の中にある、というのが一般的な理解だと思いますが、そういうことが気になっているわけではない?

→あまり比較可能な概念ではない気もしますが…。世界はフッサール由来でしょうか。

そうだと思いますが、たんに無限やら未規定性やら決定不能性ということが言いたいのだから、「起源」がフッサールであるという必要もないんじゃないかと思いますけどね。

・六 の3段落:「まず第一に問題となるのは、無規定なそして規定不可能な、従って操作不可能な複雑性についてその境界をはっきりさせることである。」

→うーん、このあとの説明がよくわからないんですが、(異なる諸社会から区別されるものとしての)「社会」の機能は、「操作不可能、縮減不可能な複雑性」と「縮減可能な複雑性」のあいだの境界維持である、ということかな? (またそれが増大するのが「進化」である、と)

上述のように、社会の機能は世界という縮減不可能な複雑性を、解釈図式でもって縮減してしまう、ところにあります。縮減されてしまえばそれはもう社会にとっての意味(理解可能なモノ)になってしまいますよね。
とはいえ、社会の中に無限の解釈図式を取り込むわけにはいかない(無限を取り込んだらそれはもうすでに世界なわけで、社会じゃない)、だから、社会は諸機能システムに内部分化しているのだけれど、せいぜい取り扱い可能な機能システムしか取り扱うことができない。「社会」の「境界」は、したがって「その社会が取り扱うことができる諸機能システムの境界」に一致する、のではないでしょうか。
当然、取り扱うことが可能な機能システムの数が増えることが「進化」なのだと思います。

・四 の5段落ですが、「【異なる諸社会システム〔様々なサブシステム、のことかな?〕】」とありますが、おそらくこの「異なる諸社会システム云々」は、もはや「<社会>を、サブシステムという部分の集合した全体としては捉えられない」という前提に立った上で、個々の特殊システムから見た社会もまた社会(ワンオブゼムとしての)であるという感じで書いているのでは? その上で、本来一機能には還元できない包括的な<社会>の機能まで問うてみようではないか、と。

パーソンズの立場では、社会Gesellschaft内の諸機能システムの機能を問うことはできても、社会Gesellschaftの機能を問うことはできない。そうすると社会Gesellschaftに機能を割り当てることができない。
だけど、社会にも機能はあるのだ。それは、そこにおいて機能的分化が存在して、機能システム形成を可能にする、という機能である。だから社会も、次元は違うとしても、機能という観点=地平において、異なる諸社会システムと区別して比較考量することができるのだよ、というのがルーマンの立場だと思います。
だから、【異なる諸社会システム】=【様々なサブシステム】ではないとしても、【異なる諸社会システム】⊇【サブシステム】であるだろうと思います。当然、【異なる諸社会システム】⊇【社会】ということもいえます。



ところで、ぼくの説明自体がワケワカランという可能性がありますので、遠慮なくガシガシ突っ込んでください。