性自認

下記の議論に関して、おせっかい。

性自認がいつ形成されるとか、どうやって形成されるとか関係ないじゃないか、と。だって、性自認が決定するのが先天的であれ後天的であれ、結局他人がどうこうできるものではないことは確かだから。どう思おうが自己肯定ができる状態に心身ともにあればよいじゃないか、と結果重視の立場に変更。

学部生の方のようなので、えらそーに文献指示などをしま〜す♪
社会学(のジェンダー論の、一部)では、性自認の<先天的/後天的>-区別は、現在ではおっしゃるとおり問題になっていません。たんに<社会的>なだけ、というわけです。
文献は

を、バトラーやセジウィックを読む前に読んでおくのが吉。

周知のように,’80年代以前のジェンダー論において,ジェンダー概念は「社会的性差」,つまり「生物学的性差」であるセックスとの区別によって定義されてきた.フェミニズムが行った主な主張は,セックスによって決定されているわけではないジェンダーの領域が,セックスがジェンダーを決定しているという「決定論」「本質主義」の誤謬に反して独立した領域である,というものだった.これに対して加藤の議論は,’90年代以降のジェンダー論に典型的なものである.すなわち,ジェンダーの外部に不動の,先行するものとしてのセックスが「ある」のではなく,「性を分割しようという関心」であるところのジェンダーが,セックスの分割を生産している,というものだ.加藤によれば性別を分割する根拠は生殖機能の差異にある(生殖機能の差異は分割の根拠であって性差ではない).したがって性別とは,「われわれが有性生殖に重大な意味づけをしている限りにおいて存在する社会的な出来事」(加藤 1998: 27)である.

性別に関しても,いつの日か生殖器の観察とは無縁に,脳の機能を検査することで判定できるようになるというようなことがありうるだろうか.あり得るかもしれない.しかし,それもまた脳の機能の差異が,生殖機能の差異と結びつくかたちで把握される場合に限るはずだ.〔…〕それ以外に,脳の機能そのものからいかにして性別を(性差ではなく)導出し得るか.そもそも何を考えればこの問いについて考えたことになるのかすら,私にはわからない」(加藤 1998: 127).

性差が「ある」といえるためには当然「性別」の存在が先行していなければならず,性別が「ある」といえるためには,有性生殖への「関心」が先行していなければならない.(例えば脳の)性差を示して,「ほら,性別はあるでしょう」といってみても,これは存在論的に転倒している認識(遠近法的錯視)であることは明白だ.

↑自分のレポートから転載。教授に「削れ」といわれたのでここで再利用。