コミュニケーション(行為)

北田本があそこで取り上げているのは、──「コミュニケーション」という語が、明示的に・術語的に導入された*3──1984年以降のルーマンの議論だ、とはとりあえず言えます。で、なんといっても『論争』[1971] からは10年以上もあとの話なんで「すでに戦線は動いてしまった」とも、術語使用方針が(それぞれの側で)明確になって「対立がよりはっきりした」とも、どっちともいえます。 この間に、ハバーマスのほうは、大著『コミュニケーション的行為の理論』[1981] をだしており、上に書いたルーマン発話行為論へのコメントも、ハバーマスのこの本を意識したものだと読めるもの。で、両者の発話行為論への対応は、これまた見事に対照的*4なもので、その点が、北田本でも取り上げられている、というわけです。

3:それまでは、行為・コミュニケーション行為・コミュニケーションの間で術語が揺れていた。
4:オースティンが提起した、発話行為・発話内行為・発話媒介行為のトリアーデについて、ハバーマスは「もっとはっきり区別して扱わないといかん」といい、ルーマンのほうは「分類に使うのはナンセンス。それらはどんなコミュニケーションにおいても、分離できない仕方で・あわさって登場しているはず」というようなことを述べたのでした[『社会システムたち』第4章参照]。


とのことです>id:kei1982さん
とはいえ発話行為論も非常に興味深いテーマですので、「論争のその後」、ということで話題にしてもいいと思います*1
いちおう文献の指示だけしておくと、

後者の第5章で、デリダ-サール論争にハーバーマスが首を突っ込んでくるいきさつが解説されています(第3章では、ハバルマ論争をまるごと1章割いて解説しているので、そちらも有用かも)。

ルーマンのこの辺の事情(<コミュニケーション>概念)はクニール&ナセヒ本にも書いてあった気がしますが、

が、ルーマンのコミュニケーション概念を<パフォーマティヴ/コンスタティヴ>概念をもちいて解説し、構築主義批判を展開する、というものになっています。

とはいえ、「忙しくてそこまでつきあってらんない」という方のために、東浩紀存在論的、郵便的』というアンチョコ本がありますので、それで済ませるのも、ありかと。

*1:毎度言葉足らずでご迷惑おかけしておりますが、北田本で論じられている発話行為論は「論争後」の「彼ら」の発話行為論でありますので、「論争後」の彼らの発話行為論にまで目を配ってみてもよいでしょうね、ということです。