id:churosさんへのお返事

http://d.hatena.ne.jp/churos/20040218#1077065199

昨今の嫌煙の「行き過ぎ」に、ばくぜんとしたなにかいやな感じを感じる気はしますが、上の文章を読んでも、どうして蓮實さんが吸殻を捨ててまわるのかまったくわからないし、hidex7777さんが「千代田区で吸うときだけは必ず「ポイ捨て」するように心掛けてきた」のかまったくわからないし、矢部史郎さんが言っていることもまったくわからない(「自分が主人であることを肝に銘じるために、街路に吸殻をまき散らす」?)。わからなくていいとはまったく思わないので、わかりたい。

かなり乱暴に要約して説明します(というか、ひとに説明するのが苦手なほうなので、説明が乱暴になってしまうと思います。疑問を投げかけられる経験が少ないので、どうしても返答する訓練に欠けてしまうのですが、はてなはそういうイミで、とてもよいツールだと思った次第です)。

他に「うまい」説明ができる方がいらっしゃったら、お願いします。

ぼくの感覚では、この「路上禁煙問題」は、たんに「ポイ捨てしたり嫌煙者の前で平気で吸う奴がいるから、法や条例で取り締まろう」という「単一の権力者の命令」に還元されない、複合的な問題です。

まず、2002年10月1日に生活環境条例が東京都千代田区で施行され(http://www.poisute.com/)、ついで健康増進法が2003年5月に施行(http://www.ron.gr.jp/law/law/kenko_zo.htm)されました。これは法的な問題です。千代田区の条例自体の正当性、健康増進法自体の合憲性がまずは問われるべきでしょう。

ところが、「路上禁煙問題」は法的な問題に還元されない。ぼくが引用した『ユリイカ』2003年10月号で、もっともこの「複合性」を記述しえているのが前田年昭論文です(その理由は、複合的な問題をうまく整理して単純化しているからではなく、ほとんど引用から成立しているからです)。前田年明論文でもっとも多く引用されているのが2ちゃんねるの書き込みで、たとえば次のような引用があります。

歩きタバコしている奴は、/無条件に殴っても罪に問われない法案をきぼーん。/むかつく。
喫煙は、/学歴が低い
テメエのようなニコ中が死ねば済む問題なんだよ、ボケ
喫煙=キチガイ/疑うまでもなく事実である
お前ら喫煙者はゴキブリ以下の生物だなw
喫煙族は、/ニコチン、タールなど/約400種類以上の/有毒物質を撒き散らす/害虫、ゴキブリ

これらの嫌悪の吐露は、2ちゃんねるではありふれているため、嫌煙派は皆このようなメンタリティの持ち主である、などという主張はもちろん、出来ません。

しかし重要なのは、「条例・法」と「2ちゃんねる」の間には、空虚があるわけではなく(非連続なのではなく)、様々な水準の「問題」の積み重ねがあり(グラデーションになっており)、その連続性によって「2ちゃんねる」から「条例・法」への「飛躍」を促しているのだという認識です。

禁煙推進側は、この「飛躍」のはらむ「複合性」を負担していません。いわば、認識論的に「自然」で「日常的」な推論に基づいて条約を、法案を提起できたと感じています(そのはずです。<異論があれば証拠を教えて欲しい。これは挑発して言っているのではなく、資料として貴重だと思うからです)。

これに対し、禁煙の負担をする側(=条例に従わされる喫煙者)は、これらすべての「複合性」を負担させられることになります。たとえば、

それなら、吸殻を捨てないで、「千代田区屋外喫煙禁止に反対する」、と言えばよいのではないか?

とchurosさんはおっしゃっていますが、「喫煙禁止に反対派」は、「2ちゃんねる」〜「条例」の複合性をすべて説明しなければならないのに対し、「禁煙推進派」は条例の正当性、しかも(条例可決の)「手続き上の正当性」のみを主張すれば事足りるのです。

さてそこで<人間的/動物的>の区別ですが、

おそらく、蓮實も矢部も倫理的抵抗を、カント的な当為(ゾルレン)として感じ取っており、この「ヤバイ」状況への倫理的介入を動物的に(人間的な攻撃性に抵抗するために)作動させようとしているのだ。ぼくが気になったのは、彼らが動物的にならざるを得ないほど状況が「ヤバイ」ことになっていて、苦渋に満ちた倫理的抵抗を当為とするような、権力関係の渦にわれわれはすでに巻き込まれている、ということに、ぼくもふくめて多くの人々が気付いているかどうかすら怪しい、という点である。

「動物的」って、「(人間的に)言ってもわからないから、(“吸殻をわざわざ捨てる”ようなことをして)びっくりさせて、はっとさせる」みたいな意味でしょうか……。

w)まあそれでもいいとは思いますが、むしろここでぼくはハイデガーの区別を借用しています。

ハイデガーは、「石は世界を持たない」「人間は世界形成的」であるのに対し、「動物は世界が貧しい」という区別をしています。これは論壇・講壇文脈的には批判の対象となる区別なのですが、ぼくはここで戦略的に「動物化」してみるのも「アリ」なのではないかという提起を行ったわけです。

「世界」とは、現象学の用語で、あらゆる事象の総体であり(前期ヴィトゲンシュタインもそういっているので現象学に限定する必要もないのですが、ハイデガーの話から導入しているので、このように定義します)、すなわち最も複合的なものです。動物化するとは、したがって、複合性の負担をうっちゃって(貧しくして)、人間達(=ここでは禁煙推進派)の構成した複合性を無視した行為遂行を意味します。

動物的行為遂行にどんなものがありうるか、それを考えるのは非常にやっかいで、それこそもっとも「負担」になる仕事だと思います。ぼくが蓮實や矢部の「想像力」を賞賛したのはそういった文脈からです。北田御大id:gyodaiktのような日和見主義者は蓮實の少ない髪の毛でも煎じて飲むべきです(笑)。それから蓮實も東大総長をやっている時期にこういう発言をするべきです。

煙草を吸いたい(と思っている)人がいて、煙草の煙が嫌い(だと思っている)人がいる。それをうまく調整できたらよいと思う。でも、「千代田区では屋外で煙草吸っちゃダメ!」というのはやりすぎだと思う。煙草広告もしてよいと思う。吸殻は道に捨てないほうが良い。ゴミひとつない道っていうのはなんかいやな感じはする。煙草吸う吸わない、吸殻捨てる捨てない、は、誰かに言われて強制的にやったりやめたりするようなものでは、ない、と思う。自分の近くでたばこを吸ってる人がいて、それがいやなら、状況を見てひとこと言って、やめてもらえたり、やめてもらえなかったり、する。自分がここでたばこを吸いたくなって、吸うと、やめてほしいといわれたりして、吸うのをやめたり、吸うのをやめなかったり、する。そういう感じがいいのではないかと思う。……そう私は思うのかな…?

↑churosさんのこの発言ようなまっとうなことが『ユリイカ』誌に載っていない、わけではないとは思いますが、目立たないこと自体が、非常に病的なことだとぼくは思っています。ただ同時に、目立つことも政治なので、なんとも難しい。逆に、目立とうとした連中の発言がchurosさんには意味不明に見えるのだ、ということも、青土社あたりで同人誌活動をしているカルスタ左派が肝に銘じるべきことだと、思います。