国家・国際法・テロリズム

これを書いている今現在の時点では、少なくとも、9月11日にアメリカで起きた同時多発テロ事件について、なにか自分の意見やなにかを発表したりするようなことに対する熱気は冷めてしまっているようである。ぼくがここでこのようなコメンタリを公にすることの意義も、「反省」にさらされることになるだろう。つまり、「なぜ書くの?」という問いにさらされるだろうということだ。

逆に、今から数週間ほどさかのぼると、そのような「反省」が一切免除されているような、ありそうもない状況の中で、とても多くの言葉(とても多くの言語から成る)が費やされていたのだ。そのような状況がいったん過ぎ去った後で、あえてそのような「反省」の中で書いてみるということは、ここでぼくが述べようとする内容にとっても、有意義なことだと思う。

ここであの事件をめぐる一連の騒動について、自分の考えを述べようと思うのだが、実をいうとこの「コメンタリ」を、ぼくは今から2週間ほど前に発表する予定でいたのだ。それはあくまでも、政治家や政府関連機関のとった「手続き」に対する批判的なコメントをシンプルにまとめたものになるはずだった。つまり、「事件」当日からぼくがあちこちで書き散らしていたものをまとめ、修正を施したものを「コメンタリ第1弾」とするはずだった。ところが自分のスケジュールと怠惰とのせいで、その時期を逸していると、「書く状況」がドラスティックに変化してしまって、単に「政治家の取った手続き」を批判した文章を発表してことたれりといえるような状況ではなくなってしまった。

とはいえ、ここでなにか、慎重かつ詳細かつシリアスな「論文」を発表するわけではない。あくまでも、怒涛のようなコメント・ディスクールの【流れ】の中で、やはりこちらも乱暴なコメントを書き散らすことで、【流れ】の転轍機 switch となるような役割を果たせたらよいと思う。

さて、その前に、整理しよう。半月ほど前までに行われた政治機関による「手続き」はどのようなものだったか?いったい何が起きたというのだろう?

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9月11日午前8時45分、アメリカの民間旅客機4機がハイジャックされ、うち2機がニューヨークの世界貿易センターに、1機がワシントンの米国防総省に突入、1機がピッツバーグ郊外で米軍によって撃墜された(公式には未発表)。その直後の9時30分にはブッシュ大統領は「明らかにわが国を標的にしたテロだ。……犯人は必ず逮捕する」と公式に述べている。

その後の展開は、改めて書き記すまでも無いことであるが、10月7日、米英軍によるアフガニスタン空爆開始まで、歴史上まったくありえなかったような政治的手続きが繰り広げられた。

まずブッシュは、「これは『戦争』だ!」と叫び、「報復戦争」の準備に取り掛かることを宣言した。北大西洋条約第5条「…締約国の1または2以上に対する武力攻撃を全締約国に対する攻撃とみなす」を適用し、報復戦争を「正規戦」へと格上げすることを図った。

ブッシュは醜悪極まりない演説をぶち上げ(9月21日)、「世界各国は、テロリストの側につくのか、我々の側につくのか、選択せよ」と公式に発言する(ぼくの記憶では、中国江沢民主席は「国連による正式な手続きを経ているのでなければ、国際的な決議を無条件に可決すべきではない」というような意味の発言をしていたように思う。資料が見当たらないので確認できないが、「おおお、なんとまともな政治家がいることよ!」と感動したことを覚えている)。

この時点でなんともまぬけでばかげた政治ごっこが繰り広げられていることに、多くのまともな人たちは辟易し始めた(そしておそらくこの事件関連のニュースの視聴率等も、このころから下がってきているのではないか)わけであるが、『現代思想』(書籍*A)編集後記で池上善彦が述べているように、普通、「非正規戦を仕掛けた側が正統性を得るため国外の第三者の承認を得てはじめて、単なる犯罪の次元から正規の戦闘だとの、あるいは内戦だとの承認を得て格上げされる。アメリカはそれを全て自前で調達してしまったのだ」。

9月11日のテロ事件は、明らかにアメリカ国家を相手にして行われた攻撃である。その意味することは、この事件は偶然たまたまアメリカの領土内で偶発的に起きた(つまり他のどこでもよかったのだが偶然アメリカで起こった)のではなく、ある意味的な文脈の中で、ある意味をもった出来事として、アメリカ領土内で生じせしめられた事件である、ということである。

精神錯乱のパラノイアが日本の小学生を殺害したとして、そのパラノイアにとっての自分の行為は十分に「意味的」だったとしても、彼は日本国の刑法にのっとって処罰されるだろう。なぜなら、その「意味」が埋め込まれたコンテクストを彼の側から観察したとして、「この俺が殺したのは、この俺がこの日本に偶然生まれて、偶然このような病気を患っており、偶然この俺のこのパラノイア世界にあいつら小学生が入り込んできたからだ」と、その「正当性」を主張したときに(つまり、「俺の立場にたってみれば、誰だって同じ行為をしたに違いない」と自己の行為の普遍性を訴えたときに)、その主張が普遍的であるがゆえに、その行為は偶発的なものとして法システムからは観察されるだろうからだ。つまり、「なるほど、君の立場にある人間は誰だって君と同じ行為を行うだろう。ということは、この事件は日本ではなくネパールで起きたかも知れず、火星で起きたかもしれない」とみなされる。このようなとき、その犯罪行為を観察する法(準拠法)の法的同一性を保障するエージェントとなるのが近代国家なのである。逆に、<他のどこかでも起きたかもしれない犯罪>を裁くことができない(普遍的でない)法体系しか持たない国家は、近代国家とは呼べないのだ。

話を元に戻そう。9月11日のテロ事件は、この意味では、<他のどこかでも起きたかもしれない犯罪>ではなく、【アメリカという主体】を相手に発生した事件だ。ここでいう【主体】とは、法的な主体のことである。近代国家(ネーション=ステート)における被害者/加害者は、近代法システムによって観察=区別された【主体】なのであって、法システムの存在しない空間において、いかなる法的な主体も存在しない。【アメリカ】を主語にした犯罪が、国家によって同一性を補償された法システムが作動する空間における犯罪と異質なのは、アメリカというこの主体が、国家による法システムの空間の外部に位置するものであることから由来する。

したがって、【アメリカ】(国家)を主語にした犯罪を裁くことができる法は、国家の外部、つまり国家を国家として承認する空間、いいかえれば「国家」という概念がそもそも発生可能になったような空間=世界、すなわち【国際社会】に準拠することになる。そしてその法的同一性を保障するエージェントは、国際連合である。

むろんこのような「国連主義」は、常に嘲笑の対象となってきた。国際法を強制できるエージェントは今のところ存在せず、アメリカの国家的意思の隠蓑として利用されてきたに過ぎない。しかし、国連的なエージェントが強制力を持たないのは、何者をも(いかなる国家も)、≪国家を可能にする空間≫からの脅威にさらされた経験がないからだともいえる。

いまわれわれが見ているような国家(ネーション=ステート)は、1870年以降(プロシア戦争以降)に誕生したものだが、≪国家を可能にする空間≫というものを、時間的にではなく論理的に先行するものとして想定しなければならないだろう。外部は内部に先行する。たとえて言えば、国家があって、それがお互いに戦争しあう(=承認しあう)のではなく、まず戦争という交通空間があって、その世界性が折りたたまれた襞のようなものとして、国家が見出されるのである。これは、時間的にどちらが先だという話しではない。

したがって「国家」は想像的なもの---オリジナルをもたず、互いに映しあうことで同一性を確認しあう鏡像的なもの---であるが、想像的なものにすぎないからといって、簡単に解体可能なものだと言いたいのではない。そのような「想像」を強いるような強制力、物質的・経済的条件が堅固なものであるがゆえに、国家は召還されているのであり、インター・ステート・システムとしての【国際社会】が存在しているように見えるのだ。

先に、国家内での法的主体(被害者)を承認する法システムの同一性を保障するエージェントは国家であり、国家が法的主体になるとき、そのエージェントに相当するものは【国際社会】(インター・ステート・システム)であると述べた。だが「国際法」というものの外的強制力を必要としてこなかった(「国連主義」が有効ではなかった)のは、「国家」概念を脅かすような≪外部≫からの侵入を経験したことがないからである。いや、これは正確な言い方ではない。≪外部≫は常に≪内部≫を侵食=汚染 contamination しつづけている。同時に≪内部≫は棄却要素を外部に投影することで、≪内部≫であることを維持している。≪外部≫と≪内部≫は二項対立の差異であり、それが「差異」であるということはとても重要な洞察だが、同時にそれは常に差異化されつづけられなければならないダイナミックな過程である。このダイナミズムを維持しつづけることができる限りにおいて、「≪外部の侵入≫を経験したことがない」という仮象を保持できるのだ。

さて、「手続き」の話しに戻ろう。

まず、テロ事件は犯罪である。冒頭で述べたように、アメリカ国家を標的にした、(政治的「目的」を度外視した)政治的アピールである。「これはテロか?戦争か?」との問いに、上野俊哉(文献*A)の言うように「10年も前からテロと戦争の区別なんかなくなっていたことは自明だ。いまさらそのような二項対立を持ち出してものを考えるとは何たるテイタラクか」と答えることは妥当であろうか。

たしかに、50年前から中東は、イスラム世界は、アラブは、パレスチナは、毎日毎日繰り返される空爆と、飢餓と、無意味な死や危険と共に生きてきたのであり、「戦時下」でなかった瞬間など一度たりとも訪れたことなどなかったことであろう。パレスチナで何年もの間、抵抗するすべもなく恐ろしい攻撃にさらされ続けてきた子供たちにとって、アメリカの領土で小さな爆発が起きたことを観ることは、ささやかな心の浄化になったことであろう。そして、あんなにも長い間、あんなにも悲惨な目に遭わされていたわれわれが、たった一度の「復讐」をしただけで、こんなにもヒステリックな「報復攻撃」にさらされることになろうとは、いったい「神」とはなんなのだろうか、と想像を絶するほどの絶望を感じていることであろう。

だが、ブッシュの、アメリカのヒステリックな防衛反応を見よ。彼らは何に怯え、何に憤っているのだろうか。おそらく彼ら自信、まともに答えることなど不可能だろう。まず「報復戦争」を「目的」として設定し(戦争が手段ではなく目的として行われたことも、近代以降初めての出来事ではないだろうか)、これを正規戦に格上げするために東奔西走する。「目的」の公式定義は分刻みで刻々と書き換えられる。「十字軍」などと口走ったのは誰だったか。そして、その「失言」がいかに不謹慎なものであるかということを、誰もが内心気付いてしまっているにもかかわらず、「発言内容」「公式定義」だけカードを繰るように取替えひっかえしながら、当初のヒステリックな防衛反応だけは貫徹しようと、世界中のみんなが躍起になっているのは、なんとまぬけなことであるか。まるで、下半身丸出しのまま、「下半身が丸出しであることは正当なことであるが……」と前置きした上で、ジャケットを「あれでもない、これでもない」と交換して真剣に悩んでいるかのようである。

攻撃対象は、毎日変更される。「テロ組織を擁護する政府」に対する戦争は、「北部同盟への援護」と言い換えられている(言った矢先に北部同盟誤爆していたが)。「テロという目に見えない敵を相手にした戦争である」というブッシュによる自己定義は、実はもっとも正確で正しい定義ではないだろうか。なにしろアメリカでの炭疽菌によるテロは誰が敵なのかまったくわからないままなのに、アメリカの攻撃は「順調に成功している」らしいし、政治的目的を度外視したテロ(イスラエルキリスト教教会での銃乱射など---これでイスラエルの一部パレスチナ地域からの撤退は延期されてしまった[10/31:失礼、教会での銃乱射はパキスタンでした])は、なんだか今回のUS同時多発テロ事件などまったく無関係に発生しつづけているようである。

ようするに、ブッシュ達の痙攣的な反射運動は、「我々の敵は『国家』であって欲しい」というリビドーの備給の持続に過ぎず、またその欲望に反して、「アメリカの敵」は、≪外部≫にいる・……あるいは≪外部≫そのものであるということは、悲しい事実なのだ。

このような「国際社会」にとって最悪の状況にとって、その≪外部≫の侵入は、まさしく外部的=超越的な強制力とはならないだろうか。つまり、「国家」たちにとって、国際法のエージェントは、好むと好まざるとに関わらず要請されてしかるべきではないか。

ブッシュは、「テロリストの側につくのか、アメリカの側につくのか」と問う。このような旧来の二項対立が、ここにきてやっと脱構築されることになる。我々は、テロリストの味方でもない。アメリカの味方でもない。国際社会の味方である。国際社会における犯罪は、国連をエージェントとした国際法が裁く。国連加盟国は、したがって、ブッシュのような知恵遅れが訳のわからないことをわめこうがどうしようが、とっくの昔にテロには対抗しているのだ。テロリストを法的な主体として承認することは、アメリカの軍隊にはできない。国際法のみがそれをなしうる。

今、国際社会に対して、あるいはそれを超越したテロリストたちに対して、近代社会がなすべき最も重要な課題は、国際法が国際的出来事を操作=判断し、国際的犯罪の犯罪者を区別=承認する(主体化する)という操作的機能が健全に作動するということを、アピールすることに他ならない。