ギデンズ『近代とはいかなる時代か?』(1990)

I

脱埋め込み

信頼は、近代の諸制度と根本的に結びついているのである。その場合、信頼は、人(individuals)にではなく、抽象的な能力にたいして付与されている。(41)

信頼

ルーマンの見解では、信頼という場合、人がある特定の仕方で行為しようと意思決定(deciding)する際、その人の念頭には、他にとりうる選択肢が意識的に生じている(alternatives are consciously borne in mind)。……信用(confidence)の場合、人は、期待はずれには相手に責任を負わす(blaming)ことで対処していく。(47)

III

抽象的システムにたいする信頼

抽象的システムにたいする信頼は、多くの場合そうしたシステムに責任を負う人間や集団との出会いを必要としており、私は、そうした人間や集団との出会いのことを、抽象的システムへのアクセス・ポイントと称しておきたい。(106-7)

《近代的制度の本質は、抽象的システムにたいする信頼メカニズムと》、とりわけ専門家システムにたいする信頼と《密接に関係している》、というのが私の立論の要点である。(107)

信頼と存在論的安心

存在論的安心とは、ほとんどの人が、自己のアイデンティティの連続性にたいして、また、行為を取り囲む社会的物質的環境の安定性にたいしていだく確信(confidence)をいう。(116-7)

存在論的安心は、「存在」、あるいは現象学の用語でいう「世界内存在」と関係している。(117)

ここで展開した分析は、信頼の対義語は何かという、さきに未解決のままに残しておいた問題の答えを示す機会を結果的にもたらしている。信頼の欠如を、それが抽象的システムにたいするものにせよ人格にたいするものにせよ、不信というかたちでとらえるのがおそらく妥当な状況はたしかに存在する。……しかしながら、「不信」という用語は、あまりにも表現力に欠けるため、社会的および物理的環境にたいする一般化された一連の関係のなかで中心的要素をなす「基本的」信頼の、反対命題とはなりえない。その意味で、信頼の育成は、対象物や人格の明確な同一性を認識していくための、まさに条件なのである。かりに基本的信頼が発達しなかったり、基本的信頼に本来備わっている両面価値をともなわなかった場合、結果的に絶え間ない実存的不安に陥る、したがって、この信頼という言葉の、最も奥深い意味合いにおけるその反対命題とは、実存的「不安(angst)」ないし「危惧(dread)」という言葉のなかに最もよく集約できる精神状態なのである。(126)

前近代的なものと近代的なもの

……前近代の文化における信頼関係の諸条件と近代世界におけるそれとの間には、根本的な差異を見出すことができる。(127)

伝統的文化を取り巻く環境は、総じて不安や不確実性に満ちていたのである。これらの不安や不確実性を総称して、前近代世界に特徴的な、リスクをともなう環境と呼んでおきたい。(133)