社会システム理論 第6章第5節 前半

三田ルーマン研究会では現在『社会システム理論』の読書会を、隔週で行っています。
随時参加者募集中です。
なんでこんな程度のことをこんなにもってまわった言い方してんだろう、と話し合う会です。
こちらからぜひ参加を!→http://groups.yahoo.co.jp/group/mls/


今日(11月2日金曜日)は研究会の日でした(10月26日から一週延期)。
が、今日アップロードするのは、前回(10月12日)の分です。
アップロードを忘れておりました。サーセン


前回(2007年10月12日)の三田ルーマン研究会。

Social Systems (Writing Science)

Social Systems (Writing Science)

Soziale Systeme: Grundriss einer allgemeinen Theorie

Soziale Systeme: Grundriss einer allgemeinen Theorie

社会システム理論〈上〉

社会システム理論〈上〉

  • 第6章「相互浸透」
    • 第5節「人と人との相互浸透」

前半、9段落目までです。
この節は『情熱としての愛』の復習というか要約になっている節なので、『愛』読んだ方・これから読んでみようという方には、mixiの翻訳どつきあい道場トピと共に、オススメです。




レジュメと配布資料:http://www.hideosaito.net/mls/
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今読んでいるのは『社会諸システム――一般理論の概説』第6章「相互浸透」:

  • 第06章 相互浸透
    • 01 主題の設定
    • 02 相互浸透概念
    • 03 オートポイエーシスと構造
    • 04 結合概念
    • 05 人と人との相互浸透←イマココ
    • 06 二元的図式化と相互浸透
    • 07 道徳と相互浸透
    • 08 社会化と相互浸透
    • 09 身体と相互浸透

です。

第04節「人と人との相互浸透」


[06-05-01]
相互浸透や結合という事態は、人間と社会システムの間だけではなく、人間と人間の間にも存在する。ある人間の複雑性は、別の人間にとって重要であり、逆もまた然り、といえる。こうした状況が問題になるとき、これを間‐人間の相互浸透とよぶことにしよう(20)。また、社会化について述べる前に、それを考慮に入れなければならない。

[06-05-02]
この用法が、相互浸透概念を変化させるわけではない。人間と人間の関係は、人間と社会秩序の関係と同じ概念で把握される(21)。まさに同一に保たれた概念が、どの種類のシステムに言及するかに応じて、異なる現象を際立たせるのである。

[06-05-03]
いうまでもなく、人間間の関係は社会的現象である。そのようなものとしてのみ、社会学の関心をひいている。このことは、それが成立するような条件や形式が社会的であること、つまり、さらなる社会的条件への依存性を意味しているということのみを意味しているのではない。のみならず、社会的条件と形式は、人間が自身の複雑性として相互に何を〔自身をどのようなものとして〕提供しあうのか、その内容にも影響を及ぼすのである。社会(Gesellschaft)の社会システムによってのみ、人間は現に複雑であるように複雑でありうる――複雑性の厳密に定義された意味〔=選択された結びつきが他でもありうる〕において(22)。こうした連関は、間‐人間の相互浸透それ自体という現象の研究を排除しない。歴史的に相対的な現象を見ているのだ、ということを観察しなければならないというだけである――歴史的に相対的、というのは、人間の構成のための、進化によって変動する社会的前提によってのことである。すなわち、そのつど前提とされる人間と社会システムの相互浸透の様式によって歴史的に相対化された現象。

[06-05-04]
よりよく定式化するため、人間間の相互浸透関係を、【親密な】(intim)関係とよぶことにする――強度が変化する状況、という意味における親密性である。親密性が成立するのは、〔ある人間の〕ますます多くのパーソナルな体験(Erleben)や身体的行動の領域が、別の人間にとってアクセス可能で重要なものになり、逆もまた同様、という場合である。これが可能なのは、ダブル・コンティンジェンシーが人格帰属によって操作化される(operationalisiert wird)場合〔予期可能になる、選択肢を絞り込める場合〕のみである。そのとき、他者はたんに状況に順応して行動するのではない。彼の行動は、内的に操縦された選択として経験(erfahren)されている――他者の世界の複雑性(23)によって条件づけられているのであって、たんに自我の環境の複雑性によって条件づけられているのではない(他者は自我の環境に、その他大勢と共に現れているのだが)。他者は彼自身を彼の世界内に位置づけているものとして〔自我によって〕経験される。彼が彼の世界内から出発して行為するという前提によって、人格帰属が可能になり、それが親密性を根拠づけるのである。

[06-05-05]
親密性の起源は――歴史的に進化したものとしても個々の事例においても――それゆえ、それを利己主義と利他主義の図式で解釈しようとするなら、充分には概念化されえない(この図式が帰属過程を支え、いわばそれを認識するための助けを提供しているのではあるが)。これに対応することだが、互酬的報酬(wechselseitiger Gratifikation)という表象を用いた理論は問題に対して不充分である。おおまかにいえば、ひとは贈与が欲しいから愛するのではなく、その贈与の意味が欲しいから愛するのである。この贈与の意味は、移動された報酬に存するのでもなければ、他者を経由しての間接的な欲求充足に存するのでもない(24)。給付の内に存しているのではなく、相互浸透それ自体に存するのであって、つまり他者の複雑性に存しているのである。他者の複雑性は、そのひと固有の生の契機(Moment des eigenen Lebens)として、親密性において獲得されるのである。贈与の意味は、ある新しい種類の創発的現実に存している。愛のゼマンティクが17世紀以来述べているように、その現実は通常の世界とずれており、それ固有の世界を創り出している(25)。

[06-05-06]
「友愛」(Freundschaft/friendship)の名のもとに18世紀まで続いた長い伝統とは対照的に、パーソナルな関係の親密性には、社会システムの完成態を見出すことはできないし、社会の本来の「中心」(Mitte/center)さえ見出すことはできない。親密性の増大は、対応する小さな諸システムの機能的分出によって条件づけられている。本質的に、それは非定型的な、あるいは長続きしない行動をさえ必要としている。こうした、帰属の特殊な形式への依存のため、親密性はルーティン化されえない。17世紀の愛のコードにおいて、このことは「過剰」の要求として、18世紀には洗練として、19世紀には労働世界からの逃走として、それぞれ明示〔称揚〕されてきた(26)。

[06-05-07]
これらの変遷すべてにおいて安定している構成素は、個々の人格の増大する個別化を考慮に入れ、社会的接触におけるこうした個別性の承認を考慮に入れることができる、社会的形式への関心である。私‐性(Das Ich/I-ness)は、それにのみ帰属されうる特定の特徴を備えることで、それ自体が関与しているコミュニケーションの客体になる。それはそれ自身を呈示し、観察される――規範を満たしているかいなか(Normerfüllung)に関してだけでなく、そのもっともパーソナルな特徴に関しても、観察されるのである。私‐的な(ichhaft)パーソナリティ(Personalität)へのこの関心が充分な社会的および文化的受容を獲得した場合のみ、親密な関係の分出が生じることができる。そこでは、誰もがもっとも固有であるものを提供し、そのお返しにさらに固有なものを受け取るのである。

[06-05-08]
こうした親密な、間‐人間の相互浸透という現象は、こんにち気付かれているよりももっと説明の必要がある。それを吟味するため、我々は帰属理論に依拠することにしよう。社会的に支持されていない、本来きわめてありそうにない親密な関係にあるものは誰であれ(27)、この関係のさしあたってありそうな崩壊を、ありそうもないように思われるようにする、定位点(Orientierungspunkute)を見つけなければならない。このエントロピーに対抗する試みにおいては、パートナーの個別的人格に関わることしかできない。他のすべての資源は、間‐人間の相互浸透に特定化されているシステムの外に存する。それゆえ、安定したパーソナルなメルクマールに関連して、他者の行動を読むのである〔そうせざるをえない〕。そのメルクマールはまた、この親密な関係の他者による受容を、納得可能にするのに適している。他者の私‐性(Das Ich des anderen)は、ある種のパラドキシカルな帰属の準拠点となる。安定した性向を認識せしめなければならないし、同時に、他者〔こちら〕の方向へと自己〔他我〕を超え出て行こうとする態勢が〔他者の側に〕なければならないのである。つまり、たんに独自の関心や習慣に従っているわでではない、ということを(28)。

[06-05-09]
このパラドクスは、パートナーが、メルクマールや諸属性のたんなる総計として考えられるのではなく、ひとつの個別化された世界連関(Weltverhältnis)〔無限のもの〕として考えられる場合のみ、解決されうる(29)。それによって、そのパートナーが顔を向けている人〔こちら〕が彼の世界に現れること、彼の世界にとっての特殊な意味を獲得できる、ということが了解可能になる。他者が自分を愛しているか否かを問う自我は、それゆえ、他者を他我〔私と同じように人格を持ち、自由にふるまいうる自我〕としてみなさなければならない。他我〔私のパートナー〕にとって、他者としての自我〔パートナーから見た私〕は、自己を超え出ようとする動機となる。それ自体の連続性を保証する他者の私‐性(anderes Ich)・への帰属は、それが変化する場合でさえ、慣例とは異なるやり方で行為したりする場合でさえ、あるいはパーソナルな関心を保留する場合でさえ、ダブル・コンティンジェンシーだけではなく、この偶発性の内で、相互浸透するシステム/環境‐関係〔安定したパーソナリティを備えているはずだ、ということ〕を前提している。そのようにしてのみ、自身の私‐性が他者の世界内に位置づけられ、他者の私‐性が自分の世界内に位置づけられる、ということが理解可能になる。