(次回用)社会システム理論 第5章第8節

*まだBBチェックを受けていないので「ご参考」程度に。

[05-08-01]意味境界がシステムと環境の差異を使用可能にしてはじめて、【世界】は存在しうる。意味を構成し、使用するシステムが、世界にさらされる。そうしたシステムは、それらの環境を・それら自身を・その内で要素として働くすべてを、ある地平において選択として経験する(erfahren)。あらゆる可能性を含み、さらなる諸可能性を示す地平において・終わりとさらにその向こうを示す地平において・必然的にかつすべての位置から任意に境界づける地平において。このように了解された世界は、意味の同一性の相関物である。すなわち、世界はすべての意味要素(Sinnelement)において、完全に与えられており、そうすることで、あらゆる意味要素に対して、同一のものとして与えられる。
[05-08-02]もちろん、世界概念をきわめて別様に決めることは可能である。たとえば特定のグループの外側から、平安に破壊をもたらすものの総体として(66)、あるいは(必然的に外世界的なextramundane)主体に対峙するものとして(67)。(まず社会学者にとって魅力的であった)世界の「間主観的」構成という表象(68)でさえ、もはや役にはたたない。それはあまりに自明のことであり、理論的に生産的であるには不充分である。われわれは世界概念を【システムと環境の差異の意味統一】を表すために採用し、差異を欠いた最終概念として用いる。この立場からすれば、世界概念は(つねに包括的で全体的な)事象の総計を指し示すわけではないし、差異を欠いたものとしてのみ想起されうる【モノゴトノゼンタイ】(universitas rerum)を指し示すこともない(69)。もともと現象学的には、世界は把握不可能な(unfaßbare)所与の統一として把握されている(erfaßt)。システム形成によって、かつシステム形成との関係を通して(Durch Systembildung und relativ auf Systembildung)、世界は〔システムと環境という〕ひとつの差異の統一として規定可能なのである(70)。双方の観点〔《システム形成によって》と《システム形成との関係を通して》?〕において肝要なのは、こうだ。世界概念は、自己をその環境から区別できる意味システムにとってのみ顕在的になる統一を指し示すのであり、したがって内と外という、二つの終わりのなさを含む統一として、この〔システムと環境という〕差異の統一を反映している。この意味での世界は、したがって、意味システムの分出によって、つまりシステムと環境の差異によって構成されている。このかぎりにおいて、世界は(現象的に与えられた世界とは違って)なにか根源的な(Ursprüngliches)、原初的な(Archehaftes)ものではなく、差異に関連した表象としての最終統一なのである。それは〔AdamとEvaの〕原罪(Sündenfall/fall from grace)以後の世界である。
[05-08-03]世界概念の、「中心(Mitte)」や「主体」への伝統的な中心化(Zentrierung)は放棄されるのだが(71)、たんに埋め合わせなしに退けられるのではない。その位置には、差異における中心化が現われる。あるいは、より精確には、世界内で分出し、それによって世界を構成する、システム/環境‐差異の上での中心化、である。それぞれの差異は世界の中心(Weltzentrum)になり、そしてだからこそ世界を必須のものにしている。世界は、それぞれのシステムがそれ自身とその環境の内に見出すあらゆるシステム/環境‐差異を、それぞれのシステム/環境‐差異に対して(für)、統合する(72)。この意味で、世界は多中心的である――ただし、それぞれの差異が、他の差異を、特定のシステムあるいはその環境に組み入れる(einorden)ことができる場合、である。
[05-08-04]このことは一見すると、人為的であるように見えるかもしれない。しかしながら、他の世界概念が特に信頼に足るわけではない。とりわけ、この世界概念を用いて、われわれは、「世界」のゼマンティクと、全体社会システム(Gesellschaftssystems)の社会構造の発展とを関連づける研究を提示できる可能性を獲得する。この進化は、たとえ何であろうと、たとえどのように規定され説明されようと、社会システムの創発的レベル上での、システム/環境‐差異からつくりあげられることなのである。
[05-08-05]すべての「?か?(Entweder/Oder; either/or)」は、それが当てはめられていない基体の上に人為的に導入されねばならない、ということを想起するべきだ(73)。すべての差異は、自己賦課的差異なのだ。それはその作動能力(Operationsfähigkeit)、つまり情報獲得を刺激する能力を、第三の可能性を排除することによって獲得する。古典的論理学はこの原則に従った。これに対して、世界の論理学は、排除された第三の可能性を含む論理学であるしかない。このことを考慮する論理学がどう見えるかは、ヘーゲル以来議論されてきた問題である(74)。われわれはここでは、問題を定立することで満足しておかなければならない。