地獄の土岐麻子

まず下記コンピレーションのM6、Wet Willieによる"Weekend"を聴いてほしい(これ、アメリカのiTSでも売ってないのね)。

フリー・ソウル・パーティー

フリー・ソウル・パーティー

これが、10年前のぼくだ。ぼくはこんな曲を、孤独の夜に、独り体育座り(明治期に軍隊教育とともに導入された座り方だ)で、夢想のナイト・クラブのパーティ・チューンとして聴いていた。
だがこのコンピレーションが「あの」Free Soulシリーズの一枚であることに気をつけなければならない。
このアルバムにはEW&Fの名曲ブラジリアン・ライム(Interlude)やS&FSのランニン・アウェイ、ノーランズのアイム・イン・ザ・ムード・フォー・ダンシンなど、名曲がつまっていることは確かだ。
何に注意しなければならないか。
00年代【日本の】「クラブシーン」とやらに蔓延する、セカンド・サマー・オブ・ラブに対するゼロ・リスペクトだ。
second summer of loveへのリスペクトなしに、なにがクラブシーンだ、ヴォケ。居酒屋で酒でも飲んでろ。DJバーでおしゃべりでもしてろ。



さてなんでこんな出だしになったか。
このWeekendをいまのぼくは聴くことができない。
理由は上記の通りだ。
じゃあ聴かなきゃいい。そのとおり。だが、土岐麻子の"Weekend Shuffle"をiTunesで検索して聴こうとすると、まさしく文字通り亡霊のごとく、この曲名が顔を見せる。


WEEKEND SHUFFLE

WEEKEND SHUFFLE

この土岐麻子のアルバムは、今現在Wet Willie"Weekend"がぼくに喚起させる地獄の《日本・クラブ・シーン》(←記述法は椹木野依に倣った)に輪をかけて、さらに地獄度を増している。


まずM1「君に、胸キュン。」。な、なんなんだ、このマシーン・ソウル・ゼロのYMOは。。。セニョール・ココナッツのビハインド・ザ・マスクとは180度向きが違う。
リスペクトがないどころではない。
「だって、アタシのほうが、偉いから」(土岐麻子・談)。
おそらくルイージもハリーも「はい、さようでございます」と答えることだろう。




同じノリは、同じくクリヤ・マコト・アレンジによるM2「夢で逢えたら」に続く。
作詞・作曲は大瀧詠一(数多くのカバー・バージョンがあるが、大瀧詠一は歌っていないらしい(ぼくは坂上香織バージョンがベストではないかと考えている)):

夢でもし 逢えたら
素敵なことね
あなたに逢えるまで
眠り続けたい

地、地獄だ……歌詞がそもそも地獄だ……マイナー・スケールとメジャー・スケールとのあわいを行きつ戻りつしつつ(どちらかというとマイナーで進むが)メジャーに解決することでメロディーとしてはこのうえなくポップでメジャー感あふれるこのサビ。
「おまえ、現実には逢えないから、永遠に眠ってろ」(土岐麻子・談)




さらにM3「Down Town」。ぼくにとってこの曲はEPOの曲だ。そうでなければならない。だがいまや、iTSでさえ、EPOの"Down Town"はボサノバ・バージョンに解毒されている。
当然ここでリスペクトされているのはEPOではなく、SUGAR BABEの方だ。まさしく《日本・クラブ・シーン》ではないか。
「おれたちひょうきん族」は、なかったことにされているのだ。
「ドリフ」だけがあった、そのような修正主義が00年代、あるいはおそらく10年代の主流となるだろう。そのような兆候としてあるいは徴候としてこの曲は聴くことができる。
オシャレ・アイテムとしてのドリフ。もちろん、音楽にまつわる純粋主義へのクリティークとして、ピツィカート・ファイヴやら初期コーネリアスやらの、オシャレ・アイテムとしての音楽消費、というスタイルは、一定期間、意義を持った(90年代後半)。
だが、00年代後半、グダグダの現状肯定主義は、幸せになれる奴は幸せを獲得でき、不幸にしかなれない奴は永遠に不幸なまま、という地獄を生み出している。これが今後10年は最低続く。





地獄度マックスはM8、「Sunday Morning」。もちろんVelvetsのカバーではなく、「あの」MORAでしか配信しないMAROON5(BMG)のカバー。
このポップな曲のどこが地獄なのか。

土岐麻子による対訳:

日曜の朝 雨模様
毛布を奪い合ったり 温もりを分け合ったり

(略)

だけどいろいろ少しずつ狂ってきて 行き詰まりそうになる
もしいつかまた きみの心に辿り着くと思っていたら
僕は喜んで出て行ったよ
いつかまたきみの心に辿り着くのなら

(略)

たぶんこれだけでいい、
真っ暗闇のなか 見えるのはきみだけ
――おいで、気晴らししよう
日曜の雨の朝 静かにドライブ
離れたくないよ

歌詞だけ読むと、甘いでしょう。甘い、ラブ・ソング。
しかし、ここで歌われている「僕」と「きみ」とは誰か。



三者の観点が必要だ。Hとしよう。
HはEを愛している。
EはRを愛している。RもEを愛している。Hは蚊帳の外。よくある話だ。

日曜の朝 雨模様
毛布を奪い合ったり 温もりを分け合ったり

これはRとEの、日常を表現している。
HとEの過去の表現でもある。

真っ暗闇のなか 見えるのはきみだけ

これはH→E、E→R、R→Eのすべてにあてはまる。


歌詞を最後まで読めばわかるように、ここでの「僕」と「きみ」はEとRだ。

――おいで、気晴らししよう
日曜の雨の朝 静かにドライブ
離れたくないよ


蚊帳の外であるHに、Eをドライブに誘って静かにドライブすることなどできないからだ。

ところがHには、

だけどいろいろ少しずつ狂ってきて 行き詰まりそうになる
もしいつかまた きみの心に辿り着くと思っていたら
僕は喜んで出て行ったよ
いつかまたきみの心に辿り着くのなら

(略)

たぶんこれだけでいい、
真っ暗闇のなか 見えるのはきみだけ

という、Eとの失敗した過去を思わせる物語への固執がある。
「静かなドライブ」への抜け道はない。
永遠に、「真っ暗闇のなか 見えるのはきみだけ」なのだ。





「永遠に、真っ暗闇のなかで 永遠に 眠り続けろ」(土岐麻子・談)



というわけで地獄の土岐麻子なのであった。