社会システム理論 第5章第1節

金曜(2007年02月23日)の三田ルーマン研究会。

Social Systems (Writing Science)

Social Systems (Writing Science)

Soziale Systeme: Grundriss einer allgemeinen Theorie

Soziale Systeme: Grundriss einer allgemeinen Theorie

社会システム理論〈上〉

社会システム理論〈上〉

  • 第5章「システムと環境」

隔週で行っています。が、次回は3月16日(金)、『社会システム理論』第5章「システムと環境」第2節の予定です。ご家族ご近所お友達おさそいあわせのうえ、ふるってご参加下さい。
http://groups.yahoo.co.jp/group/mls/



レジュメと配布資料:http://www.geocities.jp/hidex7777/mls/
今回、pocastingできません。

ICレコーダ持って行くのを忘れました。

ごめん。

まただ……


今読んでいるのは『社会システム――一般理論の概説』第5章「システムと環境」:

  • 第05章 システムと環境
    • 01 システム/環境‐パラダイム←イマココ
    • 02 再びシステム/環境‐差異について
    • 03 システム/環境‐関係と時間の問題
    • 04 システム分化と環境分化
    • 05 意味境界
    • 06 いかにして集合的行為は可能か
    • 07 インプット/アウトプット図式をこえて
    • 08 意味環境と世界概念

です。

第01節「システム/環境‐パラダイム


[05-01-01]現代のシステム理論の中心的パラダイムは、「システムと環境」である。それによれば、機能概念および機能分析は、(たとえば、維持の基準という意味における、あるいは引きおこされるべき結果という意味における)「システム」に関連しているのではなく〔つまり機能要件論とは袂を分かち〕、システムと環境の関係に関連しているのである(1)。あらゆる機能的分析の最終的連関は、システムと環境の差異に存している。それゆえにこそ、その作動をこの差異に関連づけるシステムは、機能的等価物に定位しうるのである。固有の必要〔要件〕という観点のもとで、環境の状況の多くを機能的等価物として取り扱うにせよ、規定された環境の問題に充分な確かさをもって応じうるように、内的な代替可能性を用意するにせよ。機能主義における等価物は、したがって、環境とシステムの複雑性の落差への作動的対応物(operative Gegenstück)である。この複雑性の落差がなければ、それに対応することだが、現実の知覚は有意味でも可能でもないだろう。

[05-01-02]しかしながら、システム/環境‐差異と機能への定位のつながりを考慮してみても、また実体概念と機能概念(カッシーラー)の古典的対比をしてみてさえも、ここでの理論的アプローチの射程はまだ充分明らかにはされない。環境概念をある種の残余カテゴリーとして誤解してはならない。むしろ環境の条件はシステム形成にとって【構成的】(konstitutiv)なものだ。それはシステムの「本質」にてらして「偶然的(akzidentelle)」意義だけを持つのではない(2)。あるいはまた、環境は、エネルギーと情報を供給するのでシステムの「維持」だけのためのものだ、というのでもない(3)。自己言及的システムの理論にとって、環境はむしろシステムの同一性の前提である。なぜなら、同一性は差異によってのみ可能だからである。時間化されたオートポイエシス的システム理論にとって、環境はそれゆえ必須のものである。なぜなら、すべての瞬間にシステムの出来事は消滅し、次の出来事はシステムと環境の差異の助けによってのみ、生産されうるからである。それ〔自己言及的システムの理論〕に続くあらゆるシステム理論的研究の出発点は、それゆえ、同一性ではなく差異である。

[05-01-03]このことは、客体一般への、パースペクティヴのラディカルな脱存在論化へと導く――複雑性、意味、選択圧力、ダブル・コンティンジェンシーなどの分析の結論に対応した知見へと。これに従えば、世界内における、いかなる種類の「項目(items)」であろうとも、一義的な位置づけは存在しないし、それら相互の関係をあらかじめ決定しておくわけにはいかない。現われるすべてのものは、【常に同時に】ひとつの【システム】(あるいはいくつかの諸システム)に属し、かつ【他の諸システムの環境に】属する。すべての規定は縮減の遂行を前提し、すべての規定の観察、記述、把握はシステム言及の言明を必要とする。そこ〔システム言及〕において、なにかが、システムの契機として、あるいはその環境の契機として、規定される。すべてのシステムの変化は、その他の諸システムの環境の変化である。つまり、ある部分における複雑性の増大はすべて、他の諸システムすべてにとっての環境の複雑性を増大させる。
「脱存在論化」に関して、配布資料参照。ルーマンは「存在論」を、存在/非存在‐区別を用いた特殊な観察技法としている。


[05-01-04]このことを、システム理論的分析のすべての分岐内において念頭においておくことは、必ずしも有効なことではない。とりわけ、システム理論の批判が非常にしばしば、この根本思想を隠蔽するのは、それが、システム理論は現実の見え方を「物象化〔具象化〕(Reifikation)〔マルクス主義の文脈で「物象化」は通例Verdinglichungだが、ここではピーター・バーガーのreificationを経由していると思われる〕」している、あるいは短縮しているとして批判する理由をもっていると考えるばあいである。しかしながら、そういう場合、理論的アプローチが根本的に誤解されている。差異を事象のように扱うことはできないし、差異の「物象化」は批判者自身の誤解である。根本的差異〔最初の差異〕は、差異が区別するものの価値的な評価を行わない。たしかに、ひとは(観察者として)そのつど、見えているシステム言及を特定しなければならないし、そのつど、システムのことを考えているのかその環境のことを考えているのかを特定しなければならない(4)。しかし、存在論的にも分析的にも、システムが環境よりも重要だということはない。なぜなら、両側とも、現にあるようにあるのは、他方との関係においてのみだからだ。

[05-01-05]だから、人格は社会システムの環境に含まれるという言明にはまた、人格それ自体に対してあるいは他のものに対して、人格の意義のを評価づけることが含意されてはいない。主体概念への過大評価のみが、いわば意識の主体性のテーゼだけが修正されているのである。社会システムは「主体」にではなく、環境を「基盤にして」存している。「基盤にして存する」ということで、ここではただ、社会システムの分出の前提(とりわけ意識の担い手としての人格)があるということのみが意味されているのであって、共に分出するということではない。

[05-01-06]第二にあらかじめ述べておくことは、現実におけるシステム/環境?差異の位置づけに関することだ。差異は存在論的なものではなく、その点に了解の困難さがある。それは現実総体を二つの部分に切り分けるのではない。これがシステムで、あれが環境、というふうに。この、あれかこれか(Entweder/Oder)は絶対的なものではなく、システムに関係してのみ意義を持つのであり、しかしそれにもかかわらず、客観的である〔事実である〕ことが重要なのである。それ〔あれかこれか〕は、現実にこの区別(他の区別と同様)を導入する、観察という作動の相関物である。我々はしたがって、新しく発展した、「自然的(naturalen)」作動の認識論(5)から出発するのであり、観察、記述、認識にとっての、「形而上学的」な、主体的な特権的地位を請求しないのである。観察するということは、たとえばシステムと環境といったなんらかの区別を取り扱うことに他ならない。それは認識を得ることに特化した作動ではないし、分析でもない。この意味で〔観察という言葉をこの意味で用いるならば〕、我々がここで取り扱うすべてのシステムは、自己観察の能力を持っている。このようなシステムを観察する場合、それゆえ、いかにそれ自体が自己自身との関係においてシステムと環境の区別を適用しているかを、共に把握できるのである。これを無視して、システム境界を別様に引こうと決意することはできる。しかしそうすれば、きわめて恣意的な作動に留まり、それにもかかわらず認識を成し遂げると主張しようというのであれば、それ自体を正当化しなければならない。まず第一に、科学的理論がそれ自身の観察図式を、システム自体において適用されているものと一致させ、したがって、システムをシステムそれ自体と合意の上で(in Übereinstimmung mit)同定することを、科学理論に要請することは、もっともなことである。いずれにせよ、我々の考察はこうした要請に従っており、この点に認識の現実連関をみている。

[05-01-07]システムが実践しているシステムと環境の差異は、貫通する現実に重なり合っており、これを前提としている。そのため、地球の磁場は生体にとってもその環境にとっても意義がある。磁場としては、生体と環境の境界へ「注意を払う」ことはないが。固有のコミュニケーションのテーマから成っているコミュニケーション的社会システムは、確かに、あらゆるものを、内側へもしくは外側へ整理し、したがって、固有のシステム/環境‐差異を普遍的に妥当するものとして実践する。しかしそれは、それ固有のコミュニケーションに関わるかぎりにおいてである。しかし同時に、あらかじめその実践の可能性の条件として、それぞれ固有の秩序(Ordnung)にある物理的、化学的、有機的、心的現実がこうした差異をすり抜けることを前提としている。それゆえ、熱はシステムとその環境を同時に、その境界への注意なしに動かす。そして人格は、社会システムの境界によって内的に切断されることなく、社会システムにおいてと同時に、自己自身のために行為するのである。

[05-01-08]現実を基盤とするというこうしたテーゼは、すでに上述した(6)仮定に対応している。つまり、あらゆる要素は、前提とされる複雑性の土台をふまえて、しかし同時に、システムそれ自体にとってはそれ以上分解することの出来ない、創発的な統一として構成されるという仮定である。我々はいま、次のことをそれに付け加えることが出来る。要素形成を可能にする、前提される複雑性は、まさしくそれゆえ【システム】においては【環境】としてのみ取り扱われうる、ということを。まさしくこうした意味において、細胞の化学的システムは脳にとって、脳の環境であり、人格の意識は、社会システムにとって社会システムの環境である。神経生理学的過程の分解は最終的要素としてのひとつの細胞に行き着くことはないし、社会的過程の分解が意識に到達することもない。

[05-01-09]こうした事態を適切に考慮するばあいにのみ、注意深く設定されたシステム理論的分析が可能である。「たんに分析的に」考えられたシステム/環境‐差異と、具体的に存在するシステム/環境‐差異から、区別の基盤を選択することが必要だと思うなら、それは可能ではない。現実の外部により確かな根底(Fundament)があると考える「主観的」認識理論との別離とともに、その分析的/具体的という区別も取り除かれる(7)。いずれにせよ、それらは相対化されねばならない。つまり、現実へと改めて関係づけられねばならない。システムの無媒介の〔直接の〕作動が、そのつど特定の意味連関にしたがって、ほかならぬ顕在的な状況に基づいて生じており、コミュニケーションとして〔の作動〕は、たとえばテーマを明らかにすることやさらなるコミュニケーションを可能にすることに、なんらかの寄与をしている。システムと環境の差異が観察の基盤とされるのは、その作動をシステムへとあるいは環境へと帰属することを可能にするためである。それはより高度なものを目指そうとする秩序関心、たとえは制御関心や学習関心を成し遂げる。そのさい、外部からの観察なのか、自己観察なのかということが問題になりうる。学的観察は、認識利得という特別な課題を持つ、外的観察の特殊ケースである。それは、純粋に分析的な区別に固執し、対象として存在しているシステムにおいて、自己観察の過程が進行し、システムそれ自体におけるシステムと環境の差異を利用可能にしているのを無視するならば、その課題をこなすことはほとんどないだろう。

[05-01-10]社会システムのばあい、システムそれ自体において、システムと環境の差異が利用可能であるということと、その作動を調整するのに使われうるということは、ほとんど疑いえない。自己観察を可能にする、自己記述の形式もまた、我々はすでに知っている。それはコミュニケーションを行為へと縮減することを利用する。コミュニケーションは情報を含み、それゆえつねに、情報が環境から来たときには、環境の意味は蓄積されるのであるが、行為にかんしては、システムに属するのか否かをより簡単に決着をつけることができる。行為の意味は、環境を指し示すかもしれない。たとえばひとは市場のために生産する。しかし行為自体の選択は、システムの内において位置づけられ、システム固有の規則によって操縦され、その責任において、環境の行為とは別様に扱われる。コミュニケーション的行為はとくに、システムにおけるシステムと環境の差異の作動的実行にも適している。

[05-01-11]社会システムを行為連関へと縮減する記述を作り出すことは、したがって、すべての観察の前提条件である。ここでいう観察とは、システムと環境の差異を持ち出し(ins Spiel bringen)、つまりたとえば、システムに、それによってその環境からそれ自体を区別するメルクマールを帰する、そうした観察である。このことは、外的観察にも内的観察にも同様に妥当する(8)。内的観察(自己観察)として妥当しうるのは、システムのコミュニケーション過程においてテーマにされることだけである。というのは、システムはコミュニケーションによってしかそれ自体にアクセス可能でないからである。コミュニケーションへ参加し、行為に寄与する心的システムの、参与による観察は、すでに外的観察である(9)。外的観察と内的観察の区別においてもまた、システム/環境‐差異が、すでに前提されている。それは観察を観察するための区別として利用される。それは、いわゆる「参与観察」の理論と方法論にとって、意義のあることかもしれない。参与観察は、観察の観察に際して、対象が行為の形式を採用しているということを前提しなければならない。

[05-01-12]こうしたことすべてをもってしても、行為システムとして自己記述することを介して、いかにして環境との連関を処理しているのか、まだ明らかにはされていない。あるいは、いかにしてこのようなシステム記述に、システム/環境‐差異が組み入れられうるのかを。いずれにせよたんに「適応」が問題だということではありえないし、同様に、「複雑性の縮減」だけが問題だということもありえない。自己記述を含むシステムは、システムと環境の差異を、ひとつの方向において見たり、取り扱うことができるだけではない。他の方向が、つねにともに含意されている。典型的には、二つの部分からなる問題定式、つまりひとつの条件づけられるべき対立項としてシステムと環境の差異を操作化(operationalisieren)しようと試みることが、確かなものである。たとえば、分解と再結合、利益とコスト、変異と選択的保持、複雑性の縮減と増大、のように(10)。そのように、システムと環境の差異に対して、それを前提としてさらなる差異が、接続される。

[05-01-13]社会システムは、自己を、行為システムとして解釈するため、帰属可能な行為の基礎的過程に関係づけられねばならない。為されることが可能であることだけが、システムにおいて制御可能な現実であるのであり、こうした現実だけが重要である。その場合には、環境を、外部への行為連鎖の延長として思い描かなければならない。行為の条件のコンテクストとして、またシステムにおける行為の結果として。理論的構想として、こうした考えは17、18世紀以来、ホッブスヴィーコ以来新種の行為概念とともに一緒に利用可能となった。まさしくそれゆえに、あの二重定式化も始動させられている。我々はこの点に、インプット/アウトプット‐図式の議論を機会として、後に第7節で戻ってくることにする。