2006年に読んだ本ベスト20

今年はあまり本を読まなかった(体力的問題で)ので、20も挙げられるかなーというか10ぐらいに絞ったほうがいいかなーという気がしますが、一応。
例によって、「今年出版された本」じゃなくて「個人的に今年読んだ本」のベストです。一年前のものはこれ2005年に読んだ本のベスト17を - suneoHairWax
【追記】便利!(&ご紹介ありがとうございます)今年の○冊 - chirashino☆ura


[20]中原昌也 et al.『嫌オタク流』(太田出版

嫌オタク流

嫌オタク流

なんかゲラゲラ笑って読んだ記憶がある。(http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20060205/p2

[19]森下伸也『社会学がわかる事典―読みこなし使いこなし活用自在』(日本実業出版社

社会学がわかる事典

社会学がわかる事典

2000年刊行。いろんな人がいろんなところでオススメしている(たとえば片桐新自他編『基礎社会学 新訂第1版』58頁〔ISBN:4790711765〕。これもいい入門書だ)ので読んだ。とてもわかりやすい。170頁なんか、涙なしには読めない。

[18]『センター試験英語〈文法・語句整序・リスニング〉の点数が面白いほどとれる本』

リスニング対応に改訂されたので読んでみたが、冒頭の(一番長い)章、文法のまとめが非常によいまとめ。

[17]『人形』(国書刊行会

人形 (書物の王国)

人形 (書物の王国)

『社会システム』の第4章に「いったんコミュニケーションに巻き込まれると、二度と純真な魂=人びとのパラダイスへは戻ることができない(クライストが望んだように、裏口の扉を通ってさえも)」というフレーズが出てくるが、その元ネタとなる《クライスト「マリオネット劇場について」》所収。
澁澤龍彦江戸川乱歩なども収録されていたのではなかったかな。うちのベッドでこの本をゴロゴロしながら読んでいた当時のガールフレンドが「この本をいきなりプレゼントされたらあなたのこと大好きになっちゃうわ」と言っていた。人形ネタでは次のも。

[16]藤田博史『人形愛の精神分析』(青土社

人形愛の精神分析

人形愛の精神分析

Foujitaさんのは『性倒錯の構造―フロイト/ラカンの分析理論』〔ISBN:4791762665〕も再版されたようですが、日本史上最速ラカン入門といった趣き。この本買う前に『大航海』でラカン特集があって、それが面白かったのでニワカラカニャンに転向(3日ぐらい)。ちゃんと勉強したい人は『知の教科書 フロイト=ラカン』〔ISBN:4062583305〕を読みましょう(ラカンを「ちゃんと勉強」できる環境が整うとは……アラン・ミレールさまさまですな)。

[15]『小西真奈美写真集 「27」』(朝日出版社

小西真奈美写真集 「27」

小西真奈美写真集 「27」

この写真集出版前にTV「情熱大陸」で特集が組まれ、そこで小西真奈美に対してインタビュアーが「『本当の』あなたはどれ?」という非常に無防備な被分析性の高い、かつ小西真奈美を前にして多くの人びとが抱く感想を口にし、それに対して小西は「本当の私というものは、私の内面にあるものではなく、他者、たとえばあなたとの対話において、その対話のまっただなかで、私があなたに投影してしまう『あなた』――この『あなた』は私にとって環境に位置するものですが、その環境も私の内にある環境、つまりわたしという自己に再参入した自己と環境の差異、この意味での環境に位置しているのですが――その『あなた』が私をまさしくこの対話のまっただなかで構成する――もちろん『本当のあなた』がどのように私を構成しているのかは私の知るところではありませんよ。対話の中で、この人は私をこのように構成しているのだなあと、ヒントを得る、もしくは対話から私自身がああ、私はこのような人物なのだなあとヒントを得るということですが――そのようなところのものです」と述べ、これは「本当の」という存在論的解決へ向けて欲望を奪われる我々に対してしばしばルーマンがよくやる問いの解消・脱構築なわけで、このような女優は被分析性が皆無であり、むしろ彼女にまなざしを向ける我々の被分析性があらわになる、とぼくはそのときに思ったものだ。
その後この写真集(小西真奈美の6年間を追い続けてその期間のすべての写真を収録したものだ)が出版され、例のCM「ぐびなま」が放映され、WEB上のとあるニュースで(ソースを示したいが出典を忘れてしまった)「ポーカーフェイスでなんでもこなす秀才女優」という評価がなされていたのを読み、小西真奈美の非・被分析性、ないしまなざす「主体」たちの被分析性を高める、その能力が確かなものだと確信したのだった(なにしろこの写真集を作るために6年間彼女を追いかけ続けた写真家自身が、「結局なにもわからなかった」と述べているのだから)。
「ポーカーフェイスでなんでもこなす」と多くの人びとが思う、ということはつまり、多くの人びとが、「そのポーカーフェイスの裏側=真実は?」と考えさせられるという、受動的な状態に置かれることを意味する。そして先に述べたように小西真奈美は「裏側=真実」という存在論的問いかけに対して構成主義的な問いの解消(ルーマン語でいえば「ポスト存在論的認識論」)を行おうとするわけなのだが、その「行い」は言語のうえでの「行い(perform)」にすぎず、身体表現はまさにポーカーフェイス「そのもの」を指し示している。ポーカーフェイスという象徴、つまり記号――ある記号表現は、【実は】彼女の内面のサディズムの記号内容を意味している、のような――ではなく、ポーカーフェイスがポーカーフェイスを意味している、という無差異の、それがそれ以外ではない、という、他の事象・状況をマークされていない空間として排除することによって成り立つ、そのような客体ならざる客体、準対象物として屹立させるのである。このとき羨望は(羨望は存在論的で「記号論的」だから)「私」から奪った同一性を取り返すことができない。いったん私が(対象に)与えた同一性を、いまだ鏡像imageは把持している・と羨望は想像imageする。いやむしろimageから羨望が倒錯的に生じる。当然ながらこの羨望は、何も意味しない=それ自体であるところのものしか意味しないモノ、に固定的意味を追い求めるが、それは堂々巡り、亀に追いつけないアキレス、的に永遠に当たらない矢、とならざるを得ない。
そのようなことを考えたのだが、菊地成孔に代表されるようなフロイディアン(かれは最も正しく80年代の精神分析的言説を継承している)は羨望を「持つ」側の被分析性ではなく、対象の被分析性を高めるためにフロイトを用いる。もちろん精神分析はセッションにおいて成立するものであるから、羨望と対象のどちらに準拠すると「宣言」してみたところで結果は同じであるのだが(セッション〔を観察する分析者〕に準拠していることになる)、精神分析家ではないわれわれが現代においてラカンを受容するひとつの補助線として、このセッション準拠というベーシックに回帰するラインを念頭に置くことは無駄ではないだろうと思う。

[14]好井裕明『「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス』(光文社新書

「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス (光文社新書)

「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス (光文社新書)

2006年前半に出版された、社会学者が書いた本、のマイ・ベスト。
「社会調査士」という制度のおかげで、「社会調査」と「社会学」がまるで別のものであるという事実が明白のものとなると思う。社会調査に基づいた社会学はありうるとしても。アクセルレイテッド機能分化。
本書を面白いと感じたのは、著者が社会調査に没頭しながら、徹底して社会調査とは何かを考えながら、そしてそこで考えられていることがありふれた古臭い事柄だとしても、この本自体がひたすら「社会学的」だという点。

[13]小林標ラテン語の世界』(中公新書

ラテン語の世界―ローマが残した無限の遺産 (中公新書)

ラテン語の世界―ローマが残した無限の遺産 (中公新書)

ラテン語について書かれた本を何冊読んでもラテン語はわからないということがわかった。というのはウソで(ウソじゃないけど)西洋近代語のいくつかをとりだして語源としてのラテン語を解説していて、教養として最低限必要なこと(たぶんこれでは足りないけれども)を知ることができる。

[12]ミッチ・カリン(金原瑞人訳)『タイドランド』(角川書店

タイドランド

タイドランド

テリー・ギリアムの映画“ローズ・イン・タイドランド”(http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20060905/p2)の原作。映画は原作にかなり忠実で、世界観・細部の細部に至るまで美しい。今年ベスト。というわけで、映画がよかったのでランクイン。

[11]山内志朗『ぎりぎり合格への論文マニュアル』(平凡社新書

ぎりぎり合格への論文マニュアル (平凡社新書)

ぎりぎり合格への論文マニュアル (平凡社新書)

2001年刊行。個人的に切羽詰った動機から。読み物として面白いですよ。大学に入って初めてレポート書くぐらいの人向け。まあ、これ読んでもぼくは何も書けなかったんですが(笑えない)。
この本を「レベルが高すぎる」と評し、「もっとやさしく」をモットーに書かれたのが戸田山和久『論文の教室―レポートから卒論まで』(NHK出版)〔ISBN:4140019549〕なのだが、どう考えても戸田山本の方が敷居が高い(笑)。なんせページ数が多くて読みきれない(笑)。ぼくは途中で投げ出した。(まあ、そのぶん、実践的お役立ち度でいえば戸田山本が上かも)

[10]菊地成孔『歌舞伎町のミッドナイト・フットボール―世界の9年間と、新宿コマ劇場裏の6日間』(小学館

あたりまえだけどこのリストは上から順番に書かれているのでも、下から順番に書かれているのでもなく、50挙げたいけれども苦渋の選択で20に絞り込んで…というふうに書かれているのでもなく、今年何読んだっけなあー?まったくもって思い出せない。というBZP健忘の苦しみによって書かれているのであるが、Amazonとかゆうやつには忌々しくも2006年注文状況表示機能がついており、それによれば、本書(2004年刊行)を4月に購入している。野坂昭如特集の『ユリイカ』〔ISBN:4791701410〕と共に。
そんな昔の本を今年に入って買ったっけ?と考えたら思い出したのだけど、たしか菊地成孔特集の『ユリイカ』〔ISBN:4791701453〕が出て、その山下洋輔対談が面白くて、それから、どうやら「ミスタードーナツシュトックハウゼン」が本書に収録されているらしいということを知り、それで注文したのだった。
で、いま朝の5:40ですが、さっきすかいらーくに行って確認したら、ぼくはこの本の解説ばっかり読んでいたことに気付いた。……などといっても何のことだかわからないか。この本は、菊地氏の過去9年間のエッセイ等に、2004年のある時期に歌舞伎町のホテルに6日間カンヅメになって自身による解説を付したものなのです。で、その6日間の実況中継が面白くてその部分だけ読んだらしい。今年の4月に。いや、いくつかは(解説じゃない部分を)読んだけど、マイルスとかサン・ラーについての原稿は少なくとも読んでいなかった。
ああ、思い出した。「ミスタードーナツシュトックハウゼン」が読みたくて購入したのに、当の「ミスタードーナツシュトックハウゼン」初出の『ユリイカ』〔ISBN:4791700287〕がちゃっかりうちの本棚に入っていて、なんだーちぇーとか思って放り出したのでした。
この本は菊地氏の書籍の中では一番売れているようだすね(Amazonによれば)。『官能と憂鬱を…』〔ISBN:4309267807〕は出てすぐ読んだなあ。あとなぜか『スペインの宇宙食』〔ISBN:4093874654〕も。
この本はファン向けの非重要文献なのだと決め付けてかかって(だって実際読めばわかるけどほとんど書きとばしの原稿なんだもの)今年になるまで避けてたんだね、きっと。

[09]バタイユ中条省平訳)『マダムエドワルダ/目玉の話』(光文社文庫

マダム・エドワルダ/目玉の話 (光文社古典新訳文庫)

マダム・エドワルダ/目玉の話 (光文社古典新訳文庫)

光文社文庫の例の新訳シリーズ。ぼくはバタイユの思想的意義についてはよくわからないのだけど(つまらない、っていう意味じゃなく、ヘーゲルがよくわからないので、ちゃんと咀嚼できない)、小説は今読んでもひたすら面白いと思う。
http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20060912/p1

[08]CanCam 増刊 エビちゃんシアタースペシャル版

エビちゃんの魅力を余すところなく収録。していないところが、欲求不満を駆り立て、「さらに次のものを」という欲望を喚起するところがみごと。エビちゃん関連の「モノ」はすべてそうなのではないか。とすると、我々は彼女の魅力をまったく(まったきかたちで)わかっていないのに、魅力を感じていることになる。これほど被分析的で倒錯的なことはないだろう。
蛯原友里は、アウラだけを纏っており(そのアウラは個人的には長谷川京子のそれだと思っているのだが)、そのアウラの中心、アウラを「放つ」核、といったものを完全に欠いており、その「諸」アウラのコンステラツィオンを見出す我々、の方こそがやはりここでも被分析性が高められることになる。

[07]ホゼ・アグエイアス『時空のサーファー』(モデラート)

時空のサーファー

時空のサーファー

2005年復刊。今年刊行された高橋徹『マヤンカレンダー 2012』〔ISBN:4899761074〕も記念碑的だが、世紀の名著の復刊と(ぼくによる)採取成功を記念して、こちらの書影を挙げておこう(書影ないけど)。ただ、ホゼ、の分身のアンクル・ジョーの表現はわかりにくいと思ったよ。預言的な煽りにも感心しなかった。
マヤの暦についての昨今の混乱については入り組んでいるのでここで述べることはしないが(簡潔にはhttp://www6.plala.or.jp/nagaku/の「マヤ・カレンダー」の項目参照)、ぼくは単純に、複数のカレンダーを同時に使うことは端的に良いことである、というポリシーから、マヤ関連のカレンダー(これに日本の旧暦を付け加えよう)の使用をオススメする。
ただ、「マヤ・カレンダー」を称する、まったく内容の異なるものが二種類出てくることの混乱は、やはりある程度問題であると感じている(日本ではあまり混乱は見られないように思える。ホゼのニューエイジ的プロジェクトに帰依してしまっている欧米圏の人びとの間で混乱がこれから生じてくるんじゃなかろうか。もしくはマヤの伝統暦を認知的不協和からまったく無視するか)。提案としては、初心者はまずドリームスペル暦を実際に日常生活で使用し、慣れること。その次に、それとは異なるものとして、(本来の伝統的)「マヤ・カレンダー」に触れてみること。ぼく自身はこよみ屋で買った13の月の暦(ドリームスペル暦)に準拠した手帳をつかっており、まだ『2012』に完全に乗り換える気はないです。また、ホゼの小難しいツールキットにも手は出していません(笑)。

[06]牧野雅彦『マックス・ウェーバー入門』(平凡社新書

マックス・ウェーバー入門 (平凡社新書)

マックス・ウェーバー入門 (平凡社新書)

2006年前半マイ・ベスト。
すごいことに、この本、「ウェーバー入門」と銘打ちながら、ウェーバー自身の登場頻度がやたらと低い。
ウェーバー理解のための思想史的文脈、情況論的文脈を、わりと丁寧に(ウェーバー専門家じゃない人にとっては)追っている。ページ数も「ウェーバー以前」に圧倒的に割かれている。そこがすごいと思った。

[05]諸星大二郎『マッドメン』1,2(集英社文庫

マッドメン 1 (集英社クリエイティコミック文庫)

マッドメン 1 (集英社クリエイティコミック文庫)

マッドメン 2 (集英社クリエイティコミック文庫)

マッドメン 2 (集英社クリエイティコミック文庫)

昨今の諸星先生復刊ブームはそろそろ終わるのかな、という感じですが(と思ったら先日『ぼくとフリオと校庭で』が文庫化され、来年1月には『諸怪志異』1,2が文庫化される。まだまだ続く!)、今年復刊の『マッドメン』も、孔子もの、暗黒日本神話もの、に並んで必読文献でしょう。
物語としても面白かった。根本敬「タケオの世界」を髣髴とさせるような。

[04]漫☆画太郎『まんカス』(太田出版

まんカス

まんカス

画太郎先生の最高傑作であり、日本出版界史上最大の収穫であり、印刷メディアの発明がもたらした人類史上最も崇高なる美の結晶。
これ以上の何かを求めるのだとしたら、「次なるメディア」の誕生を待つしかないだろう。それが何千年先のことなのかはわからないとしても。

[03]レイモンド・カーヴァー村上春樹訳)『愛について語るときに我々が語ること』(中央公論社

愛について語るときに我々の語ること (村上春樹翻訳ライブラリー)

愛について語るときに我々の語ること (村上春樹翻訳ライブラリー)

このベスト20リスト、全部「村上春樹翻訳ライブラリー」で埋めてもよかったんだけど、それもなんなので。
ぼくがカーヴァーの作品の中で一番好きな「ダンスしないか?」収録。今回のバージョン以前に、文庫本で『ぼくが電話をかけている場所』〔ISBN:4061860453〕に収録されているものを読んで、それでカーヴァーが好きになったんだけど、訳としては、ぼくはそっちの方が好きなのだ。なぜかはわからないけれど。そんなに劇的に訳文が違っているわけではないのに。

[02]熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波新書

西洋哲学史―古代から中世へ (岩波新書)

西洋哲学史―古代から中世へ (岩波新書)

文体。というかリズムが、ぼくにぴったり合って、読書体験としては今年最大の快楽を得られた。
もちろん著者の頭の回転のスピードや、次々と変遷する古代の哲学者たちの概説のスピードは、ぼくの頭の回転のスピードの追いつくところではないのだけれど、ちょうどBPM180のドラムンベースのダビーなベースがBPM90で鳴っているように、そこんとこに合わせて踊れば、年寄りに優しい、というか体力的に弱っているぼくに優しい。書いている著者はBPM360ぐらいで思考しているのかもしれないけど。

[01]長岡克行『ルーマン/社会の理論の革命』(勁草書房

ルーマン/社会の理論の革命

ルーマン/社会の理論の革命

「横のものを縦にする」作業の、かなりの部分をやってくれちゃったので、ルーマンに依拠してものを書こうというぼくらにとっては、かなり楽な状況が生まれたことを意味する。
ルーマンについて、たとえば「物質連続体」っていう(この本には出てこない)概念について書こうと思ったら、これまでは、そこにたどり着くまでに延々と「ルーマン・ベーシック」を論文の第一節に書かなきゃならなかった。「意味ってのが社会学の根本概念で、システムってのは作動からなってて、作動的に閉じてるってのはうんぬんかんぬんで……」というふうに。
これからは、「長岡[2006:207ff.]を参照。」の一文で済む。この経済性が効いてくるのは、ルーマニ屋向けに書く論文よりも、「ルーマンだって? 人文電波でしょ? 社会学と何の関係があんの?」とのたまう他者に向けて書くものにおいてであると思うし、ぼくは実際、そういった他者に向けてしか書く意欲が湧かないのであった。