社会システム理論 第4章第8節(前半)

金曜(2006年12月15日)の三田ルーマン研究会。

Social Systems (Writing Science)

Social Systems (Writing Science)

Soziale Systeme: Grundriss einer allgemeinen Theorie

Soziale Systeme: Grundriss einer allgemeinen Theorie

社会システム理論〈上〉

社会システム理論〈上〉

  • 第4章「行為とコミュニケーション」
    • 第8節「コミュニケーションと行為の相互連関」(前半)

隔週で行っています。次回は来年1月12日(金)、『社会システム理論』第4章「コミュニケーションと行為」第8節後半の予定です。ご家族ご近所お友達おさそいあわせのうえ、ふるってご参加下さい。
http://groups.yahoo.co.jp/group/mls/



レジュメと配布資料:http://www.geocities.jp/hidex7777/mls/
podcastingしました:suneoHairWax::podcasting避難所
podcast.jpの復旧のめどがたたないのでcocologに避難所を作りました。(しばらくcocologでやります)
podcastingページ右下のRSS|Podcastingという画像をiTunes(などのpodcasting対応アプリ)にドラッグ&ドロップすれば聞けます。はてなユーザの方ははてなRSSが便利です。と思います。

コチラからもOK:
前半:Download
後半:Download


今読んでいるのは『社会システム――一般理論の概説』第4章「コミュニケーションと行為」:

  • 第04章 コミュニケーションと行為
    • 01 問題の提示
    • 02 コミュニケーション概念の論理構造
    • 03 フッサールデリダ
    • 04 コミュニケーションの受容と拒否
    • 05 コミュニケーションにおける誠実さの不誠実化の問題
    • 06 コミュニケーションにおけるテーマと寄与
    • 07 いかにしてコミュニケーションは可能か
    • 08 コミュニケーションと行為の相互連関←イマココ
    • 09 コミュニケーション・システムの可能性
    • 10 おわりに

です。

第08節「コミュニケーションと行為の相互連関」


[04-08-01]本章のはじめで、次のような問題を提示した。社会システムにとって、行為とコミュニケーション、そのいずれが、それを用いて諸関係が作り出される、それ以上分解できない、真に最終的な要素であるのか?この問題にここで戻りたい。この問題に、コミュニケーションと行為の関係を明確化することによって答えようと思う。それによってまた、社会システムの要素がいかにして形成されるのかを明確化したい。

[04-08-02]まずはじめに、コミュニケーションは行為としては考えられえないし、コミュニケーション過程は行為の連鎖としては考えられえない。その〔伝達と情報の差異の理解という〕統一において、コミュニケーションはたんなる伝達活動以上の選択的出来事を含んでいる。それゆえ、ある伝達が他の伝達にきっかけを与える、そうしたものとしての伝達しか見ていないのでは、コミュニケーション過程を充分に把握することはできない。伝達されていることがらの選択性、つまり情報も、そして理解の選択性もつねに、コミュニケーションの一部となり、そしてまさにそれらの諸差異は、つまりコミュニケーションの統一を可能にする諸差異は、コミュニケーションの本質を成している。

[04-08-03]加えて、コミュニケーションによって作られる社会システムにおいて、コミュニケーションだけが諸要素を分解する手段として利用可能である。言明を分析できるし、時間的・事象的・社会的なその意味連関をたどり続けることができるし、ずっと小さな意味統一を内的地平の終わりなき深みの中に、細部にわたって作り出すことができる――しかしこれはすべてコミュニケーションを通してのみ可能なのであり、それゆえ非常に時間を食う、かつ社会的要請に適うやり方においてのみ可能なのである。社会システムは詳細な分解(Zerlegung)のやり方を他に持っていない。つまり、化学的、神経生理学的、あるいは心的な過程を用いることはできない(それらすべては現実に存在して共に作用している(mitwirken)とはいえ)。いいかえれば、コミュニケーションの構成的〔根本的〕レベル(Konstitutionsebene)を下回る(unterschritten)ことはできない。必要に応じて、さらなる分解のために利用することはできる。しかし、その統一体、つまり情報・伝達・理解の融合の形式を放棄してしまえば、その作動をやめてしまうしかない。そしてこうしたことから帰結されるように、コミュニケーションによってコミュニケーション・システムとして作られる社会システムは、どの方向へ、そしてどこまで、コミュニケーションが退屈なものになること〔貢献なしの状態になること〕なしに進めるか、ということを調整する(52)。そうして、コミュニケーションが進むことを可能にする、コミュニケーションの特有の地平というものがあるのだが、そこへは決して到達されることはないし、あまりにも進みすぎてしまうと最終的にコミュニケーションを抑制し、停止する、そういった地平である。

[04-08-04]こうしたこれまでの分析のもっとも重要な結論は、【コミュニケーションは直接的には観察されえず、推論されうるのみである】ということである(53)。観察されるために、あるいは自身を観察するために、コミュニケーション・システムは行為システムとしてフラグ付けされなければならない。〔本章第2節で「コミュニケーション制御」「再帰的コミュニケーション」として〕上述したように(54)、随伴する自己制御(mitlaufende Selbstkontrolle)でさえ、行為の接続に、それが理解されたか否かを読み取ることができる場合にのみ、機能する。

[04-08-05]さらに、コミュニケーションは、行為をそこに読み込むことがないならば、より多数の〔二極ではない〕選択の間の対称的な関係である。これ〔コミュニケーションとは関係性であるということ〕もまた、移送のメタファーが隠蔽している。コミュニケーションが対称的なのは、どの選択でも他の選択に影響を及ぼしうる、そしてこの関係が連続して反転されうる、そのかぎりにおいてである。そしてまた、〔こういう場合を考えてみよう。〕隘路と障害が、理解されうることにおいて宿る。つまり、再び新しい情報が緊急に重要となり、そしてそれに次いですぐに、それについての伝達要求がにじみ出てくる(durch|schlagen)のである。選択強化の、はっきりと確定したいかなる方向(Richtung)も存在しない。諸関係は、反転されえ、そのかぎりでは高度に適応的なのである。【行為の了解をコミュニケーションという事象へと組み込むことによってはじめて、コミュニケーションは非対称的になることができる】。そのようにしてはじめて、伝達の送り手からその受け手へという方向(Richtung)を〔コミュニケーションは〕獲得することがでる、そうでなければ、受け手が彼自身の何かを伝達しはじめる、すなわち行為しはじめるというようにしてしか、反転できなくなるのである。

[04-08-06]情報と伝達の区別に対応して、行為は、社会的には、二つの異なるコンテクストにおいて形成される。〔一方では〕情報ないしコミュニケーションのテーマとして、あるいは〔他方では〕伝達の行為として。いいかえれば、非コミュニケーション的行為というものがあり、その行為については、コミュニケーションがそれ自身を知らせる(informieren)だけである。その社会的重要性さえ、コミュニケーションによって媒介される。コミュニケーション・システムは、行為についてコミュニケーションするか、あるいはその他の何かについてコミュニケーションをするかという選択肢を持っている。しかしながら、それらコミュニケーション・システムは、行為として伝達自体を把握しなければならないし、こうした意味でのみ、行為はシステムの次から次へと続く自己再生産の必要な構成素となる。それゆえ、一面的ではあるが、コミュニケーション・システムが自己自身を行為システムとして解釈するのは間違いではない。行為を通してはじめて、コミュニケーションはある一時点に、単なる〔単純な〕出来事として、固定されるのである。

[04-08-07]社会システムは、コミュニケーションの根本事象(Grundgeschehens)をふまえて、またコミュニケーションという作動をもちいて、なおかつ(demnach)行為システムとしてそれ自体を形成する。システムは自己の内において自己の記述を産み出すことで、過程の継続、システムの再生産の制御をする。自己観察と自己記述の双方のために、コミュニケーションの対称性は非対称化され、その開かれた被刺激可能性(offene Anregbarkeit/ability to be stimulated)は、諸帰結に対する責任を手がかりとして、縮減されるのである。そしてこの短縮、単純化において、またそれによってより容易に理解できる自己記述において、行為は――コミュニケーションではなく――最終的要素として供することになる。

[04-08-08]行為は帰属過程によって構成される。理由はどうであれ、いかなるコンテクストにおいてであれ、いかなるゼマンティクの助けを借りてであれ(「意図」「動機」「関心」)(55)、選択がシステムに帰属されうる限りで、行為は生じる。この行為概念は、心的なものを無視しているため、行動の充分な因果的説明を提供しないことは明らかである(56)。ここでの概念形成が含意していることは、選択はシステムに関係づけられるのであり、環境にではない、ということであり、そして、このことに基づいて、コミュニケーションの受け手は、さらなる行為のための接続のポイントとして確立される、ということである。何がそのための基礎として供するのだとしても。

[04-08-09]個々の行為が何であるかということは、社会的記述に基づいてはじめて確定されうる(57)。このことは、行為が社会的状況においてのみ可能であるということを意味するのではなく、個々の状況において、社会的記述を想起する(erinnert)限りにおいて、個々の行為は行動の流れから際立つ、ということを意味する。そのようにしてはじめて行為はその統一、そのはじめと終わりを獲得しうるのである。もっとも、生命、意識、社会的コミュニケーションのオートポイエシスは続いているのではあるが。いいかえれば、統一はシステムにおいてのみ、獲得されうる。それは、他の行為の手がかりとなるための分岐の諸可能性から生じる。

[04-08-10]このことはすでに、行為のいかなる規定であれ、単純化、複雑性の縮減を要請しているということを明示している。社会学者ならば〔素人よりも〕よりよく知りうるはずであるにもかかわらず、彼らの間でもありふれた先入観を考慮するなら、そのことがより明確になる。この先入観は、行為を具体的な個人へと帰属するということに存している。あたかもつねに一人の人間が、つねに一人の人間全体が、行為の「エージェント」として要求されているかのように。行為のための、物理的、化学的、熱学的、有機体的、心的な可能性の条件といったものがあることはいうまでもない。しかしこのことは、行為が具体的な個人にしか帰属されえないということを含意するわけではない。実際、行為が個人の過去によって完全に規定されることは決してない。膨大な調査が行為の心理学的説明の可能性の限界を明らかにしてきた(58)。行為の選択を支配しているのはたいていの場合、しかもこれは心的システムの自己理解によるのだが! 状況の方なのである(59)。観察者は行為を、状況を知ることによって、人を知ること(Personkenntnis)によるよりも、よりよく予想できる。またこれに対応して、行為の観察はしばしば、常にというわけではないが、行為者の心的状態ではなく、社会システムのオートポイエシス的再生産を実行することに向けられるのである。【にもかかわらず、日常的行為は個人に帰属される】。このようなきわめて極端な非現実的ふるまい〔個人への帰属〕は、複雑性の縮減が必要だということよって説明されるだけである。

[04-08-11]社会システム内における個々の行為の継続的生産は、随伴する自己観察の実行として、もっともよく概念化される。その実行によって、要素的統一は、さらなる接続行為のための支点を生産するように、マークされる(60)。G. スペンサー‐ブラウンによる形式を形成する作動の論理学(Logik der Form bildenden Operationen/logic of form-building)に基づくならば、区別、指し示し、再参入といった概念の助けを借りて、これらの理論的区別をはっきりさせることができる。そして、非常に抽象的・論理的なレベルで、それらを、生産的に(anschlußfähig)説明することができる(61)。行為を形成するのに用いられる区別は、システムと環境のあいだのそれである。この区別内において、(環境ではなく)システムは選択の創造者として指し示される。そして指し示しと同様区別もまた、システムそれ自体(外的観察者だけではなく)の作動として実行される。あるいは少なくともそのシステムはそういった実行能力がなければならない。このようにして、起源を異にする理論と研究、たとえば形式を形成する作動の論理学、行為理論、システム理論、帰属研究は、結び合わされうるのである。その帰結は、少なくとも社会システムにとっては、システム/環境‐差異をシステム内で用いる、オートポイエシス的再生産と、自己記述および自己観察の作動は、切り離しえないということである(62)。区別はその分析的価値を維持する――しかしそれは、社会システムは自己観察と自己記述の助けを借りてのみ、その自己再生産を成し遂げられる、という仮説を可能にするというにすぎない。

[04-08-12]加えて、時間化の契機を考慮しておこう。時間化されたシステムにおけるあらゆる要素に要請されることだが、行為は規定性と未規定性を結びつける(63)〔第1章第2節第10項をみよ〕。それらは瞬間的顕在性においては規定的である。帰責可能にする帰属上の根拠がなんであれ。そしてそれらは受け入れる接続価〔状態〕に関して〔何を受け容れるか、何が接続されていくか〕未規定である。たとえば、このことは、想定された目標と達成された目標のあいだの差異として理解しうる。しかし、行為の意味を伝承可能にする、もうひとつ別のゼマンティク形式〔アリストテレス派の行為概念?〕は、少なくとも次のことを成し遂げなければならない。つまり、【その瞬間において】規定性と未規定性を【結び合わせ】、それらを現在と未来へとふるいわけてしまわないこと、である。

[04-08-13]同様の事態を社会的次元においても認めることができるだろう。コミュニケーションが伝達行為として現われたならば、それはその時点において、すべての参与者にとって、それは同じもの(dieselbe/the same)であり、それも【同時に、同じもの】(gleichzeitig dieselbe)なのである(64)社会的状況はその結果、同期化される(65)。行為者さえ、この同期に含まれている。つまり、たとえば彼は、自分が言ったことを言った、ということをもはや否定できないのである。このとき、【すべての者】は【同じ】対象にかかわっており、このことが、次に続く接続の可能性の増大へと導くのである。閉じは、状況を開き、規定性は未規定性を生産する。しかしながらこのことは、矛盾を導くのでもなければ遮断へと導くのでもない。なぜなら、生じたことは非対称的な連続として秩序立てられており、そのように体験されるからである。