社会システム理論 第4章第7節(後半)

金曜(2006年12月01日)の三田ルーマン研究会。

Social Systems (Writing Science)

Social Systems (Writing Science)

Soziale Systeme: Grundriss einer allgemeinen Theorie

Soziale Systeme: Grundriss einer allgemeinen Theorie

社会システム理論〈上〉

社会システム理論〈上〉

  • 第4章「行為とコミュニケーション」
    • 第7節「いかにしてコミュニケーションは可能か」(後半)

隔週で行っています。次回は12月15日(金)、『社会システム理論』第4章「コミュニケーションと行為」第8節の予定です。ご家族ご近所お友達おさそいあわせのうえ、ふるってご参加下さい。
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今読んでいるのは『社会システム――一般理論の概説』第4章「コミュニケーションと行為」:

  • 第04章 コミュニケーションと行為
    • 01 問題の提示
    • 02 コミュニケーション概念の論理構造
    • 03 フッサールデリダ
    • 04 コミュニケーションの受容と拒否
    • 05 コミュニケーションにおける誠実さの不誠実化の問題
    • 06 コミュニケーションにおけるテーマと寄与
    • 07 いかにしてコミュニケーションは可能か←イマココ
    • 08 コミュニケーションと行為の相互連関
    • 09 コミュニケーション・システムの可能性
    • 10 おわりに

です。

以下がんばって注解するコーナー。

第07節「いかにしてコミュニケーションは可能か」

前回述べたように、この節の後半では、コミュニケーションにおける三つのありそうもなさ

  • 理解
  • 到達
  • 成功

に対応する、三つの進化上の獲得物について語られる。

  • 言語(Sprache/language)
  • 流布メディア(Verbreitungsmedien/media of dissemination)*
  • 象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア

その総称は【メディア】(Medien/media)であるが、この時点(1984 "Soziale Systeme")では後の〈形式/メディア〉の差異については語られない。
*前回の試訳では邦訳にしたがって「拡充メディア」と訳したが、現在BBチームが苦し紛れに用いている「流布メディア」の訳語をあてた。英訳者について、ぼくは詳しく知らないのだけれど(一人はドイツ人(おそらく)、一人はゴシップの社会的組織化とかゆう本を出していますね)、デリダの名前が出てくる章でdisseminationを訳語にあてるのはまずいだろうと思われる(デリダの「散種」は記号一般の性質なのだから)。
この節でルーマンは「もっとも成功している進化上の獲得物は象徴的に一般化されたコミュニケーションメディア(以下SGKM)である」と述べている。このことから、ルーマンのこの時期までのメディア論は、もっぱらこのSGKMを中心に展開されていると解釈されることも少なくない(と思われる(そうでもないのかな(ぼくの知っている範囲では、そういうようなものが多い、と記憶している。が、記憶違いかもしれない))一例としては長岡本S.179)。
しかしやはり、あくまでもSGKMの貢献は「成功」(Erfolg/success)に対してのみである、という、本節前半とのつながりを見落とすべきではない。第9段落では「それらは、互いに可能にしあい、互いに制限しあい、互いに帰結的諸問題を負わせあっている」と、この三つのメディアに関して述べている。第8段落では「問題の圧力を圧迫し分散するという、ある種の水力学的過程」とこのことを表現している。
「象徴的に一般化された」という表現について、第12段落で述べているように、まずもってこれは「一般化」を「象徴化」のために用いる、そういったメディアである。象徴的とは、対義語の「悪魔的」と共に理解されるべきもの、つまり「結び合わせ」「統一化」を意味している。ここで結び合わされるものは「選択と動機づけ」である。



[04-07-09]コミュニケーションにおける、それらの破損箇所をあてがい、機能的に充分に役立ち、ありそうになさをありそうなものに変換する、そうした進化上の獲得物を【メディア】(Medien/media)と名づけたい(43)。コミュニケーションのありそうになさの、三つのタイプに対応して、三つの異なるメディアを区別しなければならない。それらは、互いに可能にしあい、互いに制限しあい、互いに帰結的諸問題を負わせあっている。知覚しうる範囲をはるかに超えてコミュニケーションの理解を増大させるメディアは、【言語】(Sprache/language)である。言語は記号の使用によって際立たせられるメディアである。それは意味を表す聴覚的・視覚的記号を用いる(43a)。これは複雑性の諸問題へと導く。つまり、記号使用の規則によって、複雑性の縮減によって、また制限された結合能力に慣れることによって解決される、そういった問題へと。しかしながら、根本事象は、伝達行動と情報の差異の調整であることには変わりがない。この差異は、記号として把握されるので、他者と自我のコミュニケーションの基礎として利用されうる。また双方共に、同じ記号を使用しているということによって、彼らが同じものごとを意味しているのだという考えが、強化されうる。それゆえ、このことは、理解可能なコミュニケーションのレパートリーを【実質上無際限に拡張する】機能を持つ、非常に特殊な技術に関わっている。そしてそれゆえ、ほぼいかなる出来事でも、【情報として】立ち現われることができ、処理されることができることを保証している。この記号論的技術の重要さはいくら評価しても評価しすぎるということはないだろう。しかしながら、それは機能的特定化〔情報内容と伝達行動の差異の調整〕に依存する。それゆえその限界についても視野に入れておかなければならない。意味は記号でもなければ、言語の記号論的技術が、どの記号の選択がコミュニケーション過程において成功するかを説明することもない。

[04-07-10]言語に基づいて、【流布メディア】(Verbreitungsmedien/media of dissemination)、すなわち書字・印刷・無線通信が発達した。これらは、それ以上分解されえない言語的諸統一の、非調和分解と再結合に依存している(44)。このことは、コミュニケーション過程の範囲の膨大な拡張を帰結する。そしてこうしたことが、コミュニケーションの内容として承認されるものへと影響を与えている(45)。流布のために用いられるメディアは、選択をなすための独自の技術を備えている。すなわち、それらは維持・比較・改良の独自の可能性を産み出す。しかしそれは、標準化を通して利用されうるのである。口頭の、相互作用の、記憶と結び付けられた伝播の仕方と比較すると、これは、どのコミュニケーションがさらなるコミュニケーションの基礎として供しうるかをということを、おおいに拡張し、同時に限定するのである。

[04-07-11]言語と流布技術におけるこれらの発達のすべてによってむしろ、どのコミュニケーションが成功し、受容を動機づけることができるかということを、さらにもっと疑わしくする。近代に入ると、説得の技術、教育の目標としての雄弁、特殊な技芸としての修辞学、論争と達成の技芸としての議論、などをもちいて、上昇したありそうもなさに、ひとは対応するようになった。印刷の発明でさえ、これらの努力を陳腐化するよりもむしろ、たんに増大させただけであった(46)。しかしながら、〔進化上〕成功したのは、このより保守的な方向性にあったのではなく、【象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア】(symbolisch generalisierten Kommunikationsmedien/simbolically generalized communication media)の発達にあった。それは機能のうえで、この問題にかかわっているのである(47)。

[04-07-12]「象徴的に一般化された」とそのメディアを呼びたいのは、それが、選択と動機づけの結びつきを象徴化するために、すなわち、統一としてその結びつきを描き出すために、一般化を用いるからである。重要な例としては、真理、愛、所有権/貨幣、権力/法、などである。また、発端においては、宗教的信念、芸術、そして今日では、文明の形で標準化された「根本価値」など〔基本的人権のような〕である。きわめて多様な仕方で、またきわめて多様な相互作用の布置にとって、動機づけの手段としても働くように、つまり、提示された選択の受容を充分に確実なものにできるようにするコミュニケーションの選択を条件づけるということが、これらすべての事例において問題なのである。現代社会において、もっとも成功し、もっとも影響のあるコミュニケーションは、これらのコミュニケーション・メディアを通して展開されており、これに応じ、社会システムの形成のチャンスは、対応する諸機能へと方向づけられている。このことに関するさらなる議論は〔全体〕社会の理論(Gesellschaftstheorie)へと委ねられねばならない。しかし、社会システムの一般理論と諸社会システムのコミュニケーション的過程は、コミュニケーションの、こういった機能的に特権を持つモードの、高度に選択的な特徴へと注意をひくことに供することができる。

[04-07-13]言語、流布メディア、象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアはそれゆえ、相互依存的に、情報処理を基礎づけて、社会的コミュニケーションによって生産されうるものを増大させる、進化的獲得物である。このようにして、〔全体〕社会(Gesellschaft)はそれ自身を社会システムとして、生産し、再生産するのである。いったんコミュニケーションが開始され、続けられると、〔コミュニケーションを〕境界づける社会システムの形成は不可避になり、また、ありそうにないものの予期を、充分にありそうなものの予期に変換することによって生産される、さらに境界づけられた社会システムの発達も不可避になる。社会システムの水準では、このことは他ならぬオートポイエシス的過程である。それはそれ自身を可能にするものを生産する。

[04-07-14]これらのメディアの発達は、コミュニケーションにおける外観上の「数が多いこと」にのみ関わるのではない。それはコミュニケーションの類型とモードを変える。コミュニケーションが情報と伝達の差異を前提とすることを考慮するなら、変化の始発点を解釈することができる。この差異の体験はつねに明示的に与えられているわけではない。むしろ不透明に与えられうる。そのようにしてのみ、特殊コミュニケーション的な(社会)システム分出へと向かう漸次的進化は、可能なのである。ここから出発して、メディアは社会文化的進化に影響を及ぼす。互いに相互作用しあう人々の間での口頭での発話、及びそれに続いて生じる雄弁術を駆使した語りにおける様式化は、たしかに、話の対象を(そして、修辞学諸派で教えられるように、この対象についての専門知識を)前提としている。しかし、それは伝達と発話を作用上の統一へと融合することができ、情報の欠如を説得力を用いて補うことができ、話すことと聞くことと受容とを、リズミカルかつラプソディー〔即興〕的なやり方で同期させることができる。そうして文字通り疑いをさしはさむ時間を残さないのである。書字によってはじめて、情報と伝達の間の区別を明確にし、印刷によってはじめて、その伝達の特殊な作成から生じる〔なぜ印刷するのか、という〕疑念を増大させる。つまり、それはその独自の動機に付随しているのではないかとか、たんなる情報の奉仕者ではないのではないか、といった疑念である。書字と印刷によってはじめて、伝達と情報の統一にではなく、差異に反応するコミュニケーション過程を促す。たとえば、真実を検査するための過程、疑念を分節化する過程であり、それは精神分析的かつ/あるいはイデオロギー的観点において普遍化することへと続いたのであった。

[04-07-15]書字と印刷はコミュニケーションを構成する差異の経験を強いる。それらは、このような厳密な意味において、コミュニケーションのよりコミュニケーション的形式であり、それゆえそれらは、口頭によって可能であるよりも、もっと特定的な、コミュニケーションへのコミュニケーションによる反応を生じさせる(47)。この一連の議論に続いて、前節で詳述したテーマと寄与の差異を、ふたたび想起しなければならない。この差異は、要素的なコミュニケーション的出来事は、それ自体を秩序だった、分出した選択性をもつ過程へと形づくる、という前提である。それゆえ、コミュニケーションの社会的な再生産は、いわば、みずからその寄与を補充する、そういったテーマを再生産することで進まねばならない。テーマは、いついかなる場合でも新たに作られるわけではないし、語彙のように、言語によって適切な明確さを与えられるのでもない(言語はすべての単語を同じように取り扱い、コミュニケーション的過程においてテーマになる可能性を無視する)。それゆえ、介入的要件が、言語と相互作用を媒介する――つまりそれは、具体的なコミュニケーション的過程において、すばやく即座に理解できる受け取りに利用可能な諸テーマの、ある種のストックである。この、テーマのストックを【文化】(Kultur/culture)と呼びたい(49)。そして、それがコミュニケーションを目的として特に保管されているばあい、それを【ゼマンティク】(Semantik/semantics)と呼びたい。だから、重要な、保存可能なゼマンティクは、文化の一部であり、いわば、概念史と理念史によってわれわれに手渡されるものの一部である。文化は、意味にとって規範的内容では必ずしもない。すなわち、おそらくそれは、テーマに関連したコミュニケーションにおける、適切な寄与と適切でない寄与の区別を可能にしたり、あるいはテーマの正しい使用と正しくない使用との区別を可能にする、意味の制限(縮減)であろう(50)。

[04-07-16]複雑な理論的推論の、こうした用語法上の単純化は、社会的発達における、文化と(あるいは、より厳密にはゼマンティクと)システム構造の関係を取り扱う問題の定式化を可能にする(51)。歴史的に実りある成果を提供するためには、作業仮説は、社会システムの一般理論の水準において可能であるよりも、より強力に精緻化されねばならないだろう。われわれは出発点を定めることで満足しなければならない。