社会システム理論 第4章第7節

金曜(2006年11月10日)の三田ルーマン研究会。

Social Systems (Writing Science)

Social Systems (Writing Science)

Soziale Systeme: Grundriss einer allgemeinen Theorie

Soziale Systeme: Grundriss einer allgemeinen Theorie

社会システム理論〈上〉

社会システム理論〈上〉

  • 第4章「行為とコミュニケーション」
    • 第7節「いかにしてコミュニケーションは可能か」(前半)

隔週で行っています。が、次回は12月1日(金)[24日ではないことに注意]、『社会システム理論』第4章「コミュニケーションと行為」第7節後半(9段落目から)の予定です。ご家族ご近所お友達おさそいあわせのうえ、ふるってご参加下さい。
http://groups.yahoo.co.jp/group/mls/



レジュメと配布資料:http://www.geocities.jp/hidex7777/mls/
podcastingしました:suneoHairWax::podcasting避難所
podcast.jpの復旧のめどがたたないのでcocologに避難所を作りました。(しばらくcocologでやります)
podcastingページ右下のRSS|Podcastingという画像をiTunes(などのpodcasting対応アプリ)にドラッグ&ドロップすれば聞けます。はてなユーザの方ははてなRSSが便利です。と思います。

コチラからもOK:
前半:Download
後半:Download


今読んでいるのは『社会システム――一般理論の概説』第4章「コミュニケーションと行為」:

  • 第04章 コミュニケーションと行為
    • 01 問題の提示
    • 02 コミュニケーション概念の論理構造
    • 03 フッサールデリダ
    • 04 コミュニケーションの受容と拒否
    • 05 コミュニケーションにおける誠実さの不誠実化の問題
    • 06 コミュニケーションにおけるテーマと寄与
    • 07 いかにしてコミュニケーションは可能か←イマココ
    • 08 コミュニケーションと行為の相互連関
    • 09 コミュニケーション・システムの可能性
    • 10 おわりに

です。

以下がんばって注解するコーナー。

第07節「いかにしてコミュニケーションは可能か」

この節で述べられていることは単純明快で、あまり難解さはない。ただ、あまりに単純化しすぎではないか、思いつきにすぎないのではないか、との疑念が湧いてしまい、かえって読む側が難解にしてしまう可能性はあるが……。

邦訳でつけられた節タイトルはまたしてもミスリーディング。ここは、コミュニケーションの可能性の条件を論証している節ではなく、(1)コミュニケーションはそもそも「ありそうにない」、(2)しかしそれでも現実に「ある」、(3)では進化論的にいってどのような獲得物によって「ありそう」になっていったのか、を記述した節である。

まず三つの「ありそうになさ」が挙げられる([04]段落から[06]段落)*1

  • 理解……自我と他者は切り離された個体であるがゆえに、他者が意味することを理解することはありそうにない。
  • 到達……具体的な場所で共に現前するもの同士のコミュニケーション(=相互作用)を時空的に超えるコミュニケーションの到達はありそうにない。
  • 成功……到達し、理解されたとしても、行為前提として受け容れられる(=成功)ことはありそうにない。

この三つの「ありそうになさ」は、コミュニケーションを思いとどまらせる「閾」としても働く([07]段落)。

そしてこの三つは相互依存の関係にある([08]段落)。どれかひとつの問題が解決されれば、他の二つの問題がより上昇するという、水力学的な関係にある。

ここまでが今回の読書会の範囲。次回[09]段落目以降、これら三つの問題にそれぞれ対応した進化上の獲得物が区別される。その総称は【メディア】である。

  • 言語……理解のありそうになさの克服に貢献
  • 拡充メディア……到達のありそうになさの克服に貢献
  • 象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア……成功のありそうになさの克服に貢献

[08]段落においてすでに、アルファベット化された文字の出現と「哲学」の起源についての言及がある。もちろん、1章2節6項及び2章6節に続いて、ハヴロックがリファーされている(オング登場は[11]段落)。

プラトン序説

プラトン序説


[04-07-01]テーマは拒否されうるし、寄与も同様である。さらに、あらゆるコミュニケーションにおいて、程度の差はあれ、損失率、無理解、廃棄物を考慮しなければならない。こういった困難は耐えうるものだが、それらはより深く存する問題からの残余なのである。いかにコミュニケーションは機能するかを素描してきたのであるが、われわれはよりラディカルに、いかにこの通常的な機能が一般的に可能であるのかを問わねばならない。

[04-07-02]進化的獲得物というコンテクストからみれば、コミュニケーションの成功(Erfolg/success)はきわめてありそうにないものだ。コミュニケーションは、それ自身の環境とそれ自身の情報処理装置を備えた、独立して存在する生物たちを前提としている。すべての生物は、自分のために、自分が知覚するものをふるいにかけ、処理している。かかる状況下で、いかにしてコミュニケーションは、すなわち、調整された選択は、可能であるのだろうか?コミュニケーション概念を二極の選択から三極の選択へと拡張したとき、この問題はより切迫したものとなる。これはたんに、ダンスにおけるような、生物たちが互いに調和されるという問題、あるいはたんに彼らの行動をカップリングするという問題だけではない。彼らは偶発的な世界内のものごとに関わって、すなわち別様でありうる世界内のものごととの関連のもとで、一致を探求し、見つけ出さねばならない。ダブル・コンティンジェンシーを克服できるということがあらかじめ不確かであるのなら、いかにしてこの不確かさは、世界内の不確かなものごとについての確かさを上昇させるのに用いられうるのだろうか?言い換えれば、いったいいかにして【情報処理】としてのコミュニケーションは可能なのか?

[04-07-03]より精確にみるなら、コミュニケーションが生じるためには克服しなければならない、多数の問題、多数の障害に、われわれは出くわすのである。

[04-07-04]進化の零点において、まず第一に、自我が他者が意味することを【理解する】(versteht/understands)ことはありそうにないことである――彼らの身体と精神が切り離された個別的なものである以上。コンテクストにおいてのみ意味は理解されうるのであり、コンテクストはまずは自分の知覚野と記憶によって提供されるものである。さらに、理解はつねに誤解を含むものであり、前提を付け加えないのであれば、誤解の成分はあまりにも多くなり、コミュニケーションの継続はありそうにないものになる。(この問題はコミュニケーションが要求されるあらゆる水準で繰り返されている。もちろん社会学における理論的議論においても。)

[04-07-05]第二のありそうになさは、受け手への【到達】(Erreichen/reaching)にかかわっている。あるコミュニケーションが、ある具体的状況において現前している人びとよりも多くの人びとに到達するということはありそうにないことである。また、そのコミュニケーションが変化されずに再生産されるべきだという要請を付け加えれば、このありそうになさは増大する。この問題は、空間的・時間的広がりに存する。ある任意の時点において共に現前している人びとの相互作用システムは、実践的目的にとって充分な、コミュニケーションへの注意を保証する。しかし相互作用システムの境界を越えるなら、そのシステムの規則は強制されえない。コミュニケーションが、移送されえ、継時的に安定したままでいる意味の担い手を見つけ出したとしても、端緒の相互作用の境界を越えて注意をひくことはまったくありそうにない。ひとびとは他の場所で、やるべきことをもっているのである。

[04-07-06]第三のありそうになさは、【成功】(Erfolg/success)である。たとえコミュニケーションが、到達した人物によって理解されたとしても、このことはそれが受容され、従われたことをも保証するわけではない。むしろ、「すべての主張はその反対を招く」。コミュニケーションが成功するのは、自我がコミュニケーションによって選択された内容(情報)を、自分の行動の前提として受容する場合だけである。受容は、ある情報が正しいという仮定のもとでの、コミュニケートされた指示(Direktiven/directive)に応じた行為のことでありうるが、また、体験、思考、情報処理を続けていくことでもありうる。コミュニケーションの成功とは、諸選択の成功したカップリングのことである。

[04-07-07]これらの三つのありそうになさは、コミュニケーションの受けいれ(Ankommen/reception)にとっての障害であるだけでも、目標達成における困難であるだけでもない。それらは、思いとどまらせる閾としても働く。コミュニケーションに望みがないと信じる者は、コミュニケーションを思いとどまる。それゆえ、コミュニケーションそのものが生じないことを予期しなければならないし、もし生じたとしても、進化のさらなる行程で消滅するであろうことを予期しなければならない。しかしコミュニケーションなしではいかなる社会システムも形成されえない。エントロピーが予期されなければならないはずだが、事実はその逆である。このことはありそうになさの定理に反しない。というのは、それはより精確に、問題の所在を指し示すからだ。その問題が解決されてはじめて、進化の行程にあるコミュニケーションを可能にし、システム形成を進め、ありそうになさをありそうなものに変換することが可能になるのである。コミュニケーション過程の内在的なありそうになさと、それらが克服されありそうなものに変えられる、その方法とが、社会システムの構築を調整する。社会文化的進化の過程は、成功しそうな見込みを持ったコミュニケーションにとってのチャンスを作りなおし、拡大しているものとして理解されねばならない。すなわち〔全体〕社会がその社会システムを形成しうる予期の確立として。あきらかに、これはたんなる成長の過程ではなく、選択の過程であって、いかなる種類の社会システムが可能であるのか・いかにして社会はたんなる相互作用から自身を際立たせるのか・なにがあまりにもありそうにないものとして排除されるのかを規定する過程である。

[04-07-08]これらのありそうになさが、たんに、徐々にそれ自身を解決するのではないということ、および、少しずつ充分にありそうなものへと変えられるのではない、ということを見る者は、この進化的選択にある種の構造があることを見て取ることだろう。それらはむしろ、相互に強めたり、制限したりしている。そうして、コミュニケーションに基づく社会文化的進化の歴史は、増大し続ける理解へと向かう、目標を掲げた進歩という事態を提示するのでもない。そうではなく、問題の圧力を圧迫し分散するという、ある種の水力学的過程としてみなすことができよう。いったん一つの問題が解決されれば、他の問題の解決がよりありそうになくなる。抑えられたありそうになさは、いわば、他の問題へと自身を変換する。もし自我がコミュニケーションを正しく理解したならば、それを拒絶するより多くの理由を持つことになる。もしコミュニケーションがその発端において現前していた人びとのサークルから超えるなら、理解はより難しくなり、拒否はより容易になる。つまり、相互作用によって提供される解釈的手助けと受容への圧力が欠けることになる。この諸問題の相互依存は、コミュニケーションとして届いてくるもの・それ自身をコミュニケーションとして確証するものに、選択的に働きかける。アルファベット化された書字が、コミュニケーションを、特定の時間に現前する人びとの、時間的・空間的に限定されたサークルを超えて運ぶことを可能にするや否や、もはや口頭の呈示の力には頼ることはできなくなった。つまりものごとそれ自体について、より厳密に議論することが必要となった。「哲学」はその起源をこのことに負っているように思われる。真摯で、保持する価値のある、普遍的なコミュニケーションを(アルファベットが通用する限りにおいて)可能にするのは、そのような緊張した状況において要求される技術としての「知恵」である。


次回の範囲(試訳):


[04-07-09]コミュニケーションにおける、それらの破損箇所をあてがい、機能的に充分に役立ち、ありそうになさをありそうなものに変換する、そうした進化上の獲得物を【メディア】(Medien)と名づけたい(43)。コミュニケーションのありそうになさの、三つのタイプに対応して、三つの異なるメディアを区別しなければならない。それらは、互いに可能にしあい、互いに制限しあい、互いに帰結的諸問題を負わせあっている。知覚可能性をはるかに超えてコミュニケーションの理解を増大させるメディアは【言語】(Sprache/language)である。言語は記号の使用によって際立たせられるメディアである。それは意味のための聴覚的・視覚的記号を用いる(43a)。これは複雑性の問題へと導く。つまり、記号使用の規則によって、複雑性の縮減によって、また制限された結合能力に慣れることによって解決される、そういった問題へと。しかしながら、根本事象は、伝達行動と情報の差異の調整であることには変わりがない。この差異は、記号として把握されるので、他者と自我のコミュニケーションの基礎として利用されうる。また双方共に、同じ記号を使用しているということによって、彼らが同じものごとを意味しているのだという考えが、強化されうる。それゆえ、このことは、理解可能なコミュニケーションのレパートリーを【実質上無際限に拡張する】機能を持つ、非常に特殊な技術に関わっている。そしてそれゆえ、ほぼいかなる出来事でも、【情報として】立ち現われることができ、処理されることができることを保証している。この記号論的技術の重要さはいくら評価しても評価しすぎるということはないだろう。しかしながら、それは機能的特定化に依存する。それゆえその限界についても視野に入れておかなければならない。意味は記号でもなければ、言語の記号論的技術が、どの記号の選択がコミュニケーション過程において成功するかを説明することもない。

[04-07-10]言語に基づいて、【拡充メディア】(Verbreitungsmedien/media of dissemination)、すなわち書字・印刷・無線通信が発達した。これらは、それ以上分解されえない言語的諸統一の、不一致分解と再結合に依存している(44)。このことは、コミュニケーション過程の範囲の膨大な拡張を帰結する。そしてこうしたことが、コミュニケーションの内容として承認されるものへと影響を与えている(45)。拡充のために用いられるメディアは、選択をなすための独自の技術を備えている。すなわち、それらは維持・比較・改良の独自の可能性を産み出す。しかしそれは、標準化を通して利用されうるのである。口頭の、相互作用の、記憶と結び付けられた伝播と比較すると、これは、どのコミュニケーションがさらなるコミュニケーションの基礎として供しうるかをということを、おおいに拡張し、同時に限定するのである。

[04-07-11]言語と拡充技術におけるこれらの発達は、どのコミュニケーションが成功し、受容を動機づけることができるかということを、さらにもっと疑わしくする。近代に入ると、説得の技術、教育の目標としての雄弁、特殊な技能としての修辞学、論争と達成の技能としての議論、などをもちいて、上昇したありそうもなさに、ひとは対応するようになった。印刷の発明でさえ、これらの努力を陳腐化するよりもむしろ、たんに増大させただけであった(46)。しかしながら、成功はこのより保守的な方向性にあったのではなく、【象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア】の発達にあった。それは機能的に、この特定の問題に適合しているのである(47)。

[04-07-12]「象徴的に一般化された」とそのメディアを呼びたいのは、それが、選択と動機づけの結びつきを象徴化するために、すなわち、統一としてその結びつきを表象するために、一般化を用いるからである。重要な例としては、真理、愛、所有権/貨幣、権力/法、などである。また、発端においては、宗教的信念、芸術、そして今日では、標準化された「基本的価値」などである。きわめて多様な仕方で、またきわめて多様な相互作用的布置にとって、動機づけの手段としても働くように、つまり、提示された選択の受容を充分に確実なものにできるようにするコミュニケーションの選択を条件づけるということが、これらすべての事例において問題なのである。現代社会において、もっとも成功し、もっとも影響のあるコミュニケーションは、これらのコミュニケーション・メディアを通して展開されており、これに応じ、社会システムの形成のチャンスは、対応する諸機能へと方向づけられている。このことに関するさらなる議論は〔全体〕社会の理論へと委ねられねばならない。しかし、社会システムの一般理論と諸社会システムのコミュニケーション的過程は、コミュニケーションの、こういった機能的に特権を持つモードの、高度に選択的な特徴へと注意をひくことに供することができる。

[04-07-13]言語、拡充メディア、象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアは、それゆえ相互依存的に、情報処理を基礎づけて、社会的コミュニケーションによって生産されうるものを増大させる、進化的獲得物である。このようにして、〔全体〕社会はそれ自身を社会システムとして、生産し、再生産するのである。いったんコミュニケーションが開始され、続けられると、境界づけられた社会システムの形成は不可避になり、また、ありそうにないものの予期を、充分にありそうなものの予期に変換することによって生産される、さらに境界づけられた社会システムの発達も不可避になる。社会システムの水準では、このことは他ならぬオートポイエシス的過程である。それはそれ自身を可能にするものを生産する。

[04-07-14]これらのメディアの発達は、コミュニケーションにおける明白な「数が多いこと」にのみ関わるのではない。それはコミュニケーションの類型とモードを変える。コミュニケーションが情報と伝達の差異を前提とすることを考慮するなら、変化の始発点を解釈することができる。この差異の体験はつねに明示的に与えられているわけではない。むしろ不透明に与えられうる。そのようにしてのみ、特定的に分出したコミュニケーション的(社会)システムへと向かう漸次的進化は、可能なのである。ここから出発して、メディアは社会文化的進化に影響を及ぼす。互いに相互作用しあう人々の間での口頭での発話、及びそれに続いて生じる雄弁術における発話の様式化は、たしかに、話の対象を(そして、修辞学諸派で教えられるように、この対象についての専門知識を)前提としている。しかし、それは伝達と発話を効果的な統一へと融合することができ、情報の欠如を説得力を用いて補うことができ、話すことと聞くことと受容とを、リズミカルでラプソディー的なやり方で同期させることができる。そうして文字通り疑いをさしはさむ時間を残さないのである。書字のみが、情報と伝達の間の区別を明確にし、印刷のみが、その伝達の特殊な作成から生じる疑念を増大させる。つまり、それはその独自の動機に付随しているのではないかとか、たんなる情報の奉仕者ではないのではないか、といった疑念である。書字と印刷のみが、伝達と情報の統一にではなく、差異に反応するコミュニケーション過程を促す。たとえば、真実を検査するための、疑念を分節化するための、疑念を精神分析的かつ/あるいはイデオロギー的観点において普遍化することをともなった過程、である。

[04-07-15]書字と印刷はコミュニケーションを構成する差異の経験を強いる。それらは、この厳密な意味において、コミュニケーションのよりコミュニケーション的形式であり、それゆえそれらは、口頭によって可能であるよりも、もっと特定的な、コミュニケーションへのコミュニケーションによる反応を要求する(48)。この一連の議論に続いて、前節で詳述したテーマと寄与の差異を、ふたたび想起しなければならない。これは、要素的なコミュニケーション的出来事は、それ自体を秩序だった、分出した選択性をもつ過程へと形づくる、という前提である。それゆえ、社会的なコミュニケーションの再生産は、いわば、みずからその寄与を補充する、そういったテーマを再生産することで進まねばならない。テーマは、いついかなる場合でも新たに作られるわけではないし、語彙のように、言語によって適切な明確さを与えられるのでもない(言語はすべての単語を同じように取り扱い、コミュニケーション的過程においてテーマになる可能性を無視する)。それゆえ、介入する要件は言語と相互作用を媒介する――つまりそれは、具体的なコミュニケーション的過程において、すばやく即座に理解できる受け取りに利用可能な諸テーマの、ある種のストックである。この、テーマのストックを【文化】(Kultur/culture)と呼びたい(49)。そして、それがコミュニケーションを目的として特に保管されているばあい、それを【ゼマンティク】(Semantik/semantics)と呼びたい。だから、重大な、保存可能なゼマンティクは、文化の一部であり、いわば、概念と理念の歴史によってわれわれに手渡されるものの一部である。文化は、意味にとって規範的内容では必ずしもない。すなわち、おそらくそれは、テーマに関連したコミュニケーションにおける、適切な寄与と適切でない寄与の区別を可能にしたり、あるいはテーマの正しい使用と正しくない使用との区別を可能にする、意味の制限(縮減)であろう(50)。

[16]複雑な理論的推論の、こうした用語法上の単純化は、社会的発達における、文化と(あるいは、より厳密にはゼマンティクと)システム構造の関係を取り扱う問題を定式化するのを可能にする(51)。歴史的に実りある成果を提供するためには、仮説上の装置は、社会システムの一般理論の水準において可能であるよりも、より強力に精緻化されねばならない。われわれは出発点を定めることで満足しなければならない。

*1:なぜ三つなのかは、わからない。