反応はや!:macskaさんにお応え。

ここ10年くらいで最悪の文章を書いてしまったらしい - *minx* [macska dot org in exile]

macskaさんの本家ブログでの記事↓
macska dot org » 「スピリチュアル・シングル論」は、マイノリティをダシにしたマジョリティのための自己啓発セミナーだ
をブックマークして、

[polit][macska]ここ10年ぐらいに読んだmacska氏の文章でこんなにひどいものは読んだことがない。なにかあったのだろうか?伊田氏のはたんに陳腐な日本のセクシュアリティ論で、ゼマンティクの水準と理論の水準を混同しているだけ。macs

とコメントした。はてなユーザの方はご存知のようにブックマークのコメントは100字限度なので、たぶんぼくは200字ぐらい書いたのだけど、変なところで切れてる。

はてなブックマークのサービスが開始してから、ぼくはいわゆる「言論」(いわゆる「blog論壇」みたいなこと)はブックマークでやって、はてダはアフィリこんな本読みましたとか映画みましたとか、って使い分けてて。これ何が違うかというと、はてブ脊髄反射、はてダはほんのりサービス目。はてダはドラフト書いて寝かせることもあるしアップしないこともある。でもやりすぎるのもいやらしいので、これアップするの恥ずかしいなあ、とちょっと思う程度のところでアップする、ということにしている(必ずしも一貫はしてないけど)。

何がいいたいかとゆーと、↑のブックマークでのコメントが文字数オーバーなのは書きながらAjaxくんが「文字数オーバーですよ」とお知らせしてくれるのでわかっていて、でも脊髄反射で「いまじぶんは何がこの記事に対して言いたいのか」を確認するために書いてみたら200字ぐらいになった。そしたら「……macs」で切れた。という経緯でこんなコメントになりました。というお話し。

それで、このコメントに対して誰かから反応があるとうれしいなと思っていたらご本人が最初に気付いた。という。すげー早い。

ま、あれだけ言うということは hidex7777 さんのわたしの文章に対する期待水準が高いのだと理解しておくとして

というのはその通りですよ。一番好きなのは10年ぐらい前にmacskaさんがやってたthird wave関連のテキスト紹介のサイト(http://www.macska.org/emerging/)だけど。あのサイトで紹介されていたテキストがちゃんと輸入されていれば、竹村和子もわざわざ編著のタイトルに『「ポスト」フェミニズム』(ISBN:4878935464ISBN:4878935618)なんて、いいわけがましく括弧を付け加える必要もなかっただろうにと、遠い目をせざるをえない。

ちなみに「サード・ウェーヴなんていってるのはバカ。セカンド・ウェーヴの仕事はまだ終わってない」と当時言っていたのが上野千鶴子で、内田ゼミ問題の責任者はやはり上野千鶴子だといわざるをえない。(とはいえ、ここ10年、日本でもっとも3rd.Waveに近寄って発言をしてきたうちの一人も上野氏だから、ぼくは一定のリスペクトは保ってきた。彼女は一人何役もやろうとして裏目に出ているのではないか)

下に、【hidexが厳選する「日本語で読めるジェンダーセクシュアリティ論」の論者ベスト100ランキング】を挙げます。

  • 001:macska
  • 002:加藤秀一
  • 003、004:該当者なし
  • 005:斉藤日出夫(hidex、ぼくのことね)
  • 006から099:該当者なし
  • 100:竹村和子
  • 101からずっとほぼ該当者なし
  • 500ぐらい:山根純佳
  • 以下ほぼ該当者なし
  • 3000ぐらい:上野千鶴子江原由美子(←このへんはぼくの所属する学内政治ウンヌンカンヌンアレコレで上下つけられない。というか本音をいえば、ご両人ともここ数年は多忙のため厳密な議論をできていない、だから初学者が教科書として読む以外、必要はない。と思う。初学者が教科書として読むとしても若手の批判的研究者の意見を聞きながら眉唾で読んだ方がよい)

まあランキングは冗談ですが(内心はかなり本気ですが)今回ケチつけたエントリを読んで「一位二位逆転かな」とぼくは思った。(ただ、今回のエントリは、その前のエントリに引き続いての「伊田ネタ」だったので、それと連続して読んで、いいかげんうんざりだった、というのもある。連続してなかったらここまで悪い印象は受けなかったかもしれない)

それで実際、何と言いたかったのか。

この「macs」の先、何と言いたかったのか非常に気になるところ。

とおっしゃられていて、もっともだと思うので、おぼろげな記憶を探って、書いたことを再現してみたい。以下。

ここ10年ぐらいに読んだmacska氏の文章でこんなにひどいものは読んだことがない。なにかあったのだろうか?伊田氏のはたんに陳腐な日本のセクシュアリティ論で、ゼマンティクの水準と理論の水準を混同しているだけ。macska氏の記事は我田引水にすぎて、それに輪をかけた混同になっている。いったいなぜ言説としての政治的なパフォーマティヴィティを自分は計測できると考えているのだろうか。論理的な越権行為である。

というようなことを書いたと思う。たぶん。脊髄で書いたから精確にはおぼえてないけど。

伊田氏の「スピリチュアル・シングル主義」のおかしな点は、コメントにも書いたように、ゼマンティクの水準と理論的水準を混同している点にある。

もちろん、理論的に「可能性の条件」が示されることがきっかけとなってゼマンティクの変動が起きる、ということもあるし、じっさいそのような社会構造の変化は歴史上たくさんあった。とはいえ、そんなこと(理論的な「啓蒙」?)よりもはるかにテクノロジーの導入(書字の発明、活版印刷、電話、テレビ、インターネット、その他産業革命の成果物、あるいは政治的テクノロジー〔=テクネー〕)や人口学的条件がきっかけとなった社会構造の変動、ゼマンティクの変容のほうがはるかに多いけれど*1



ここでの「水準の区別」について説明すると、たとえば、自戒を込めて、ぼくの修士論文セクシュアリティ論をフェミニズム理論の恩恵を受けて書いた、当時良くあったアリガチ論文)のダメなところを挙げれば、

  • 70年代:クレイム申し立ての時代で、「ホモ」という蔑称を敵から取り上げ、「ゲイ」として自己を名指すアイデンティティ・ポリティクスの時代(ヒエラルキーである二項対立をいったんひっくり返す段階)
  • 90年代:「女」が一枚岩ではないように*2「同性愛者」も一枚岩ではない。しかしその分断は連帯を困難にしたり、分断統治/管理を容易にするようなものであってはならない、われわれはQueer(変態)を名のらなければならない、という差異の時代(二項として区別された「マークされた空間」に、更に区別を施し、空間にトラブルを生じさせる段階)

……という、

  • 「ゼマンティクの歴史」をまずベタに記述したうえで、
  • 90年代に可能になったかのように見える「同一性批判」は、理論的には時代に拘束されているわけではない*3超越論的な水準のおはなしだ、


なる「ストーリー」で書こうとしながらも、ベタな「ゼマンティクの歴史」に引きずられそうになるところ。
逆に良い点は、それに気付くと、そこからもがいて脱出しようとする、「もがき論文」であるところ。



伊田氏のダメなのは、「もがき」すら無いところでしょう。「家族」単位から「個」へ、というゼマンティクの歴史の記述と、「理論的に言えば『家族』単位はおかしいので、『個』を単位とした方がよい」というお話しが、なんの「もがき」もなく短絡され、というか〈たましい〉(永井均からのパクリで、ほぼsingularity、haecceitasに近い。が、永井氏は「違う」と言っている。が、どう違うかはぼくにはわからん)によってショート・カットされている点が、言説として、単純に「変だな、これ」と思わせる。理論的には内田樹と似たようなもんだけど(ひょっとしてウッチーからパクっているのかもしれないけど)、居直る方向が違っていて、そこはウッチーの方がたちが悪い、とぼくは思っている。


理論的には個を単位にするのもおかしいのだけど。伊田はどうでもいいのでべつに突っ込む気も起きない。


ぼくはなにをどう批判したいのか。

それで(やっと)macskaさんへのいちゃもんについてなのだけれど、

  • 言説の政治的なパフォーマティヴィティをいったいどうやって測るというのか?

という一点に尽きる。といいたいけれども、その一点に向かって以下レッツゴー。

以下のような批判を、段落だけ抜き出せば、文句のつけようが無い(強調引用者、以下同様)。

伊田氏がここで指し示す「スピリチュアル・シングル」論の最も大きな間違いは、「権力性」「マジョリティ性」を単なるわたしたちの意識に還元してしまっていることだ。「権力性」とは、ただ単にわたしたちが個に目覚めていないから抱いている幻想のようなものではない。それは、社会構造のことだ。それは、不均衡な権力や権利の配分であり、意識の有り様ではないはずだ。そもそもマジョリティの側に立つ人間が「男性」「異性愛」という自覚に揺らぎを覚えたところで、一体世の中の何が変わるというのか。それは、マイノリティをダシにした、マジョリティのための自己啓発セミナーでしかない。

まったく同意。なのだけれど、やはりこの記事を一貫したものとして読もうとすると、引っかかるところがあり、端的に言って不快で、それはなぜかと考えれば、

  • そもそも一貫していない、(上述したように)混同している伊田氏のテクストを対象にして、「伊田はカクカクの主張をしているが、これはシカジカの点で非常に有害である」という批判を行ってしまえば、「カクカク」なる同定。つまり一貫性。を認めてしまうことになる

という点にある。

macskaさんの記事を要約すれば「伊田氏は、アイデンティティをぶち壊してやったと、本人は信じているようだが、そんなものは屁の役にもたたず、重要なのは社会構造の分析である」(超訳すれば「社会構造へのパフォーマティヴな介入にならなければフェミニズムの得にならないうえに、ヘテロセクシズムの居直りにしか加担しないんだよヴォケ!」)ということになるのかもしれない。たとえば下記:

伊田氏は本心から自分の理論が人々の多様な個を解放すると思っているのだろうけれど、かれの言うところの「多様な個」のなんと無機質的なことか。

これって、デジャヴを感じさせて、それはバトラーに対するくだらない批判、バトラーはアイデンティティを壊滅状態に陥らせた。アイデンティティは重要なのに!アイデンティティ・ポリティクスの元気を奪う!とか。もちろんバトラーにそんな意図はないだろうし、意図があろうと無かろうとそんなパフォーマティヴな「効果」すら持っていない(とぼくは信じている)。バトラーのテクストはたんに理論的なだけだ。

伊田氏とバトラーを並列させるなよ。というのはごもっとも。しかも、バトラーが理論的なことしか述べていない、理論の政治的パフォーマティヴィティなど信じていない(というよりテクストのパフォーマティヴな帰結を予期しうる、などという妄想を――デリダにならって――捨て去っている)のに対し、伊田氏はmacska氏のいうように「自分の理論が人びとの多様な個を解放する」と信じてしまっている(=理論とゼマンティクレベルの混同)のかもしれない。わかんないけど。

しかし、異常なまでに伊田氏によりそい、異常なまでに好意的に読むとしたならば、「信じている宗教はバカっぽいけど、理論的には、個の多様性を解放、というのは【可能性としては】ありうるよね」ということだって言える。それと政治的有効性は完全に別のハナシ。また理論水準の高低も別のハナシ。ぼくは「理論的に水準が低くてこんなの相手にならん」としか思わないけど。

ここのところの「水準の混同」を維持したままケチをつけているから、macska氏の記事は、「この混同」にのっかったまま、その土俵の上で、「それって政治的に有効でない!」「それって無機質的!」と言っているように読めるのだ。つまり一貫していない議論の中から、ここに対して批判できる・あそこに対する批判もできる、というふうに「カード引き」をやっているから、「我田引水」に見えるし、同時にその批判も一貫することがない(混同を継承inheritしてしまっている)。

さて(やっと)本題。

わたしはかれのスピリチュアリティの有り様に文句を付ける気は一切なくて、ただ「スピリチュアル・シングル」なるものが政治的な言説として有効かどうか検証したいだけだもの。

先に述べたように、「政治的な言説として有効かどうか検証したい」という一点に、ぼくは正直ムカついたのだった。

まず前提として、テクストのパフォーマティヴは予期しうるようなものではない。つまり同定しえない。これをデリダは散種とよんだ。じゃあ「パフォーマティヴ」なんていわずに「散種」ってタームを使ってればいいじゃん。といわれそうだけど、散種の含意は〈パフォーマティヴ/コンスタティヴ〉という差異は錯視であって、エクリチュールのパフォーマティヴが生じた事後に、投射されたものとしてコンスタティヴという消尽点が生産される(同時にパフォーマティヴのパフォーマティヴィティもコンスタティヴに!生産される。「筆者の意図」のようなものが)、というものだ。だからパフォーマティヴというタームを使わずして散種について語ることはできないわけ。散種とはいいかえればパフォーマティヴ一元論、ということになるだろうと思う。

で、どうもジェンダー論/セクシュアリティ論界隈には、「自分の発言がパフォーマティヴに、どのような効果を持つのか考えろ!」という恫喝・批判、が横行しているように見える。それは単純には「そんなことを言ったら誰それさんが傷つくでしょう?」という、ごもっともなお話なのかもしれないけれど、こういう批判の仕方をする連中というのはだよ。学会のジェンダー論の部会とかで、バトラーの名前がでてきたりする場所でだよ。平気でこういう批判を行ってしまうのだよ。まったく。恥知らずどもめ。まあ恥知らずだから学会とか行くんだろうけど。「どのような効果を持つのかは予期できません。とバトラーもデリダも言っています」と返せばいいのかもしれないけど。いやぼくが批判されたわけじゃないですよ。

ええと(どうも話がずれる)、伊田氏のテクストが、「政治的に有効だ」と主張するつもりもなければ、いやむしろ「有効ではない」と断言してもかまわないのだけれど(おっしゃるように社会保障制度の話ではシングル単位でいいけど、そこにスピリチュアルうんぬんは……必要なのか。「尊厳」は個体性に与えられるんだものね)、むしろ「検証したい」という欲望を喚起させない低レベルなものとしてスルーすべきものでしょう。そのようなものに対して、「マジョリティのための自己啓発セミナーだ」などと強い批判を投げかけるのは、それこそパフォーマティヴに、「いったいmacskaさんになにがあったんだろう?」などといらぬ心配を(少なくともぼくのように、ここ10年では〔日本語圏にもコミットしてくれている論者では〕トップの論者として評価し続けてきた者に対しては)かけてしまう。

いやこれじゃ批判はほどほどにね♪という話しになってしまうか。

オーケー、シンプルに言いましょう。

イチャモンコメントの最後の「論理的な越権行為である」というところにやはりぼくはこだわっていて、「かれのスピリチュアリティの有り様」に内在して批判するのならば理論的にはオーケーでしょう。伊田氏がなにか政策的提言をしていて、それに対して対抗言説として別様の政策提言をするのもオーケーでしょう。

しかし伊田氏が言っていることは、
「単独的なこの私のthis-nessといったものに尊厳は宿っているのであり、それは憲法〔基本権〕に書き込まれた、外部から到来したものであり、不可侵のものであり、そこから考えるならば(みんながそんなことを考えるならば)ヘテロセクシズムは解消され、多様な性/生のあり方に寛容な法整備、政策的提言はよりスムーズに了解可能なものになるでしょう」
という程度の【可能性の条件】のひとつの指し示しであって、それに対して
「そのようなことを述べるとパフォーマティヴにはヘテロセクシズムに加担する効果を持つ」なる「批判」を接続することは、「なくはない」接続であるとはいえ(やっちゃうおっちょこちょいがかなりいるであろうと思われる)、やはり低レベルだと思う(少なくともmacskaさんはやってはいけない)。

「そんな批判の仕方はしていない」とmacskaさんや読者は思うかもしれないが、少なくともぼくにはそう読めたわけ。
あるいは「伊田氏は政策提言してるんだよ、あれで」という方もおられるかもしれないが、ごめん、ぼくにはそうは読めないとしか言いようがない。

*1:ひるがえって、もちろん、産業革命に与えた科学の「啓蒙」はかなり有効だったと考えられる。というか、だいたい「科学の発展のせいで地球は危機に、そしてスピリチュアルな次元では…」と「近代批判」をしていた連中は悪の親玉としてデカルトパスカルを挙げる。いっておくがぼくはモリス・バーマンは好きである。

*2:この「一枚岩ではない」というスピヴァクからのパクリ剽窃は、いったい何度繰り返されたのだろうか。われながらうんざりする。

*3:とはいっても、かかる「理論的」「超越論的」「おはなし」自体が、学システムという歴史的なゼマンティクを利用してしか成り立たないのだけれど、そこまで言うとややこしくなるので、割愛。