ドラゴン桜13

金曜に読んだー。

ドラゴン桜(13) (モーニング KC)

ドラゴン桜(13) (モーニング KC)

4月に12巻が出てもう。ちょうハイスピード。14巻は7月。
13巻はセンター対策。世界史に数学に国語。って詰め込みすぎじゃね?
真ん中に上野千鶴子インタビューあり。『脱アイデンティティ』の宣伝。でも高校生にはなじみの無い言葉を使ったりしててNG。
12巻から登場の家庭教師がなんだかすごいデッサンで、バランスがおかしい。そんなことをいったらこういうバランス(体型)の人物への差別表現になるのかもしれないけど、マンガで創造された奇形というところに可能性を感じる。背が小さくて、はじめ中学生に間違えられるのだけどじつは一度会社員を経験した現役東大生の女性、という役なんだけど。首無いよねこの人。
世界史の勉強法が、まあ暗記法だけど、「因果的に考える(=なぜこの出来事が起きたか)ために教科書の後ろから勉強する」「人物に感情移入する」というのが挙げられていて、こういうのはみんなやったよね。ぼくも感情移入法はやった。良いもんと悪もんに分けて、こいつ戦争に勝ちやがってムカつくーとか、よっしゃよっしゃ勝ったーとか。時代小説感覚でバカみたいに。でも逆に言うとさあ、歴史をこういうふうに勉強してしまったがゆえに、というか歴史を歴史的(時間的)なものとしてあるいは「歴史」として理解する技術がなんらかの意味では別様ではありえなかったがゆえに、歴史学についての、ウェーバーなりヘイドン・ホワイトなりってゆう方法論的な議論が論争的に出てきて、かつ、それをオーディエンスは理解できるわけじゃん。「逆に言うとさあ」などと言ったけれども逆に言うことはできないのだろうなあ、ということは理解できる。倒錯しているように思われるのだけれども、学プログラムが人間を中心とした――と言って言いすぎならば人間に向けての――機構であるならばこれはいたしかたのないことであって。という言い方は傲慢であるような気がするのだけれども――なぜならぼく自身人間に向けた「ヒューマン・インターフェイス」の世界をしか生きることができないのだから――歴史学の別様可能性の探求のようなことを、たとえば比較人類学/社会学的にやろうとしている方々(いるのかどうか知らないけども)は目指しているのかななどと妄想をしてしまった。