夢の作業覚書。

夢の作業について。30日以上風邪をひいていて、こりゃどうにもならんと思って5月9日火曜に病院に行き、10日水曜のバイト中にめまい・悪寒・大量の冷汗・震えといったシャブ中に酷似した症状を呈したため早退、それ以降眠り続けているのですが、睡眠薬をいくらのんでも頭痛で目が覚めてしまっていたのに、風邪で処方される総合感冒薬だとこのまま死ぬんじゃないかというぐらいよく眠れる。今朝は眠りが浅かったらしく、夢をみた。とても長い夢で、夢の中でたくさんしゃべろうとするのだけど、口元が重くてうまくしゃべれなくて、そういうときは必ず寝言を言っているのだけど(自分の寝言で目が覚めたりする)、今回の夢の舞台は高校時代で、その夢の中で出会ったある女性をずっと探していた。その女性が誰に似ているのか、と(夢の中で)考えたら小嶺麗奈だったのだけど、それじゃ知らない人も多いだろうと思い、もっとメジャーな名の知られている有名人は誰かと(夢の中で)考えたら柴咲コウだった。しかし数分もしないうちに「柴咲コウ」という固有名を想起できなくてもどかしい思いをした(夢の中で)。で、目が覚めた。長い夢をみているあいだというのは、たぶんある種独特の、脳が活性化した状態が継続している状態なのだと思うのだけれど――ということはつまり、寝言も言わないような、通常の、短い夢をみているあいだは、ほとんど受動的な、脳があまり活性化していない状態なのではないかと推測しているのだけれど(といっても受動的でない脳の状態なんてないだろうと思うのだけれど、ここでは能動的/受動的という差異ではなくて活性化/受動という差異で、ぼくは考えている*1)――、この種の「長い夢」の後の目覚めはたいてい、ある種の躁状態というか興奮状態にあることが多い。サイケデリックスががっつりキマった日の朝方のような、カウンセリングを受けてなんらかの洞察を得たときのような(受けたことないけど)、何かが解放された、もしくは快方にむかったような感覚に満たされている。
まあそれで、これがawarenessもしくはawakennessというやつなのかな、と考えるのですが、今朝目が覚めたときにぼくの脳裏には"awakenness"という単語しか浮かんでなくて、ググっても臨床心理関連のページがヒットしなくて(と書きながらもう一度試したらヒンドゥー教のページがヒットした)、あれれ。なんでだろう。辞書でも"spiritual awakening"というようにいちいち頭に"spiritual"と形容詞を置かなければヒットしないし、"awakeness"じゃない。ふと"awareness"という単語が浮かんでググると、これはヒットする。何が言いたいのかというと、ちょっとハナシは飛ぶかもしれないけど
ブッダというのは「目覚めた人」という意味で、仏教が他の宗教と異なるのは、すべての人がこのブッダをめざさなければならない、ブッダにならなければならない、そういう教えを仏教とよぶ。のに対して、普通、宗教というのは自己や世界を超越した絶対的なものへの畏怖などを元にしているので、信者にすぎない俗人が神になる・超越した存在をめざすなどとんでもないことであるのだよキミ(そうでなければ予定説なんて受け容れられるわけがない)。
……というのは注釈ね。書きながら考えてんだけどさこの記事。シッダルタがどこでだったか忘れたけどブッダと名指されたとき、はじめて釈尊は「目覚めた人」となったわけだけど、その名指しの瞬間よりも以前に、何度も"awareness"のような体験をしているよね、彼は。それなのになぜこの名指しの瞬間を待たなければならなかったのか。
いやここで書きたかったのは違うな。こういうことと。↑消す。
ぼくの話に戻る。今朝目覚めたとき、ある種の興奮状態と若干の眠気(寝ようと思えば入眠できる状態)で、意識はあまり活性化していないわけよ。awarenessを思い出せないくらい。そうだ、夢の中で探していた女性なんだけど、長谷川京子に似てる。でも高校生っぽかったから、もっと若い。(長谷川京子小嶺麗奈)/2 というのがベスト表現。

*1:でもどんなに受動的であっても活性化していないということはないと思う。