銅版画家長谷川潔展作品のひみつ@横浜美術館

hasegawa

http://www.yma.city.yokohama.jp/
長谷川潔といえばメゾチント、という連想が強いと思うけれど、むしろエングレーヴィングやドライポイントのシンプルな作品にぼくはひかれる。
いずれの作品に関しても、最終ステートの段階刷りばかりが「作品」として流通しているが、この展覧会ではステート版や実験刷りも展示されており、それらとの比較で段階刷りを評価してみるのが面白いと思う。
なかでも、「刷り」以前の、鉛筆やインクによるデッサンがすばらしい。長谷川潔のデッサンは、一言で言えばうまい。もっとも近い表現形態は写真であろう、という印象を受けた。
なぜうまいと感じさせるのか、不思議でならなかったが、それはぼくの視覚が写真に犯されているからか、遠近法‐消尽点に馴らされているからか、そういった事情があるにしても、長谷川がこのようなデッサンを描くことになった原因はよくわからない。「不可視のものに近づくため、わたしは可視的なもの、静物に接近する」といった意味の言葉が展覧会場冒頭で掲げられていたが、長谷川の目に世界はこのように見えていたのか、よくわからない。とにかくデッサンのうまさには異常なものを感じた。
さらに、長谷川は第一次世界大戦の終わりを待って渡仏し、第二次世界大戦中はフランスで疎開していたのだが、作品に戦争の影がまったく見えないことに、異常さを感じた。1945年にはドランシー収容所に収監され、「心身ともに打撃をうけ」ているといわれているが、まるで戦争などなかったかのように作品の連続性は保たれていく。
あたりまえだが、芸術家も戦争をテーマにしなければならないとか、政治的であらねばならないとか、いかなる作品であれ政治的な意味をもつとか、あるいはそれらの逆テーゼは、ここではあまり関係がない。仮に芸術家が政治を(シチュアシオンを)主題にしたところで、近代美術は、そういった成分を括弧入れすることを観察者に強い、かかる観察者の括弧入れ能力、能動性に依存して、芸術として成立している。
長谷川の異常さは、むしろそのような観察者の能動性を喚起しないところにある。あたかも作品が単一の成分として成り立っているかのように、いかなる規定性の力も借りずに作品として規定されるかのように【見せかける】。そのことによって、観察者の芸術に立ち向かう能動性は宙吊りにされる。ぼくたちは作品のテクスチャーを享受しなければならず、単純に快感情に結び付けられる。その体験はもはや芸術を鑑賞する態度からは遠く離れており、温泉に入って気持ちいいとか、ベッドがふかふかで気持ちいいとか、そういった感情に近い。そのような享受が強いられる受動的状態は、端的に不快だ。
ポップカルチャーにおいては、「気持ちよければそれでいいじゃないか」というテーゼ(あるいはその逆テーゼ)が跋扈するが、かかるテーゼのもとに量産される「作品」群は、完全に政治的な成分によって満たされており、そのような不快感はもたらさない。むしろポップカルチャーと長谷川の共通点は、テクノロジーによる快楽のコントロールにあるだろう。版画家は職人に近い芸術家として語られ、実際、版画の快楽はそこでもちいられている技術に依存し、版画批評は事実上、技術批評になっている。
だが、長谷川の作品における観察者の能動性の宙吊り状態は、テクノロジーとの関係もまた、薄いように思われる。無関係ではないにせよ。なぜなら、この宙吊りの感覚は、容易にぼくたちを「作家性」に向わせるからだ。
この異常な感覚は、観察者を作家性に向わせる戦略を、「作家が(長谷川が)」持っていたのではなく(そのように想像することは可能だが)、作品が遂行的に発動しているという、そのような作品の能動性を享受する感覚なのだと思う。

白昼に神を視る

白昼に神を視る

長谷川潔の全版画

長谷川潔の全版画

長谷川潔の世界 上 (渡仏前) (横浜美術館叢書2)

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長谷川潔の世界 中 (渡仏後 I) (横浜美術館叢書3)

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長谷川潔の世界 下 (渡仏後 II) (横浜美術館叢書4)

長谷川潔の世界 下 (渡仏後 II) (横浜美術館叢書4)

長谷川潔 (日本現代版画)

長谷川潔 (日本現代版画)

長谷川潔の全版画

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長谷川潔作品集―京都国立近代美術館所蔵

長谷川潔作品集―京都国立近代美術館所蔵