非コミュというよりコミュニケーション弱者のことなのだけれど

http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20051125/p2
でちょっとだけ書いて、「非コミュ」というのがキーワード化されて、そのあとも非モテ非コミュにかんする話題が(なぜかほぼ一緒くたにされて)たくさんエントリされているみたいだけど、ぼくはそれを追えていない(なぜかというと「非モテ」のハナシにはまったく興味がなく、むしろ読むとウンザリさせられるから)。

それでfavブクマ経由でhttp://d.hatena.ne.jp/shoutingfish/20051216/1134752611を読んで、ぼくのイメージする非コミュとだいぶ異なる非コミュ像が流通しているもんなんだなあ、ということを思った(というかそれぞれのエントリで言われている「非コミュ」という事態が、それぞれにだいぶ異なる)。

それはそれでいいのだけど、ぼくはやはり下記のような論点には、自分が焦点を当てている像とは違っているとはいえ、コミュニケーション弱者について考えていることと非常に強く関わってくるので、「反論」というかたちではないにせよ、あらためて言いたいことをまとめてみようと思った。

愛する人やらコミュニケートする人よりもむしろ自身の「日常」の保持に固執すんのは非モテ非コミュだろう。何せ彼らは基本的に裏切られる事が無い(恋人ってのは裏切るもんだし、恋愛の始まりはいつも他人、友人、或いはその他による裏切りだw)。

そんな不確定性を引き受ける度胸やら覚悟の無い人間に、「日常なんかぶっ壊せ」なんて呼びかけてもしょうがないんじゃなかろうか?と言うより、呼びかけたところで「いや、是非辞めてくれ」って言われるだけのような気がするのは俺だけだろうか。

# shoutingfish 『ちなみに非モテ非コミュは覚悟が足りないっぽくてすきではないですが、駄目だとは思わないので。それで頑張れるのなら存分に開き直れば良いんじゃないでしょうか。』 (2005/12/18 03:38)

http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20051125/p2のエントリで書き忘れていたことは、

  • われわれはコミュニケーションを強く渇望している

という前提だった。つまり、この前提から

  • コミュニケーションを強く渇望しているにもかかわらず、コミュニケートできないがゆえに、苦しむ

という結論を導いた(この結論を導くにはもうひとつ、「渇望していることが満たされないと、苦しむ」という前提が必要なのだけれど)。

それで前掲http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20051125/p2にて、
「ではどうすればよいのか?」
という問いを立てたわけで、「非コミュのままでがんばりなさいな」というのは「メソッドをしめしやがれ!」という声には答えてない気がするのね(いろんな前提を挿入すれば回答になるんだけど、まあ、それはおいとく)。

http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20051125/p2に書いたことで一部修正しなければならないのは、

ここでいう「コミュニケーション能力」は、外国人との英会話スキルだとか、営業担当のような口からでまかせを吐けるような技能のことではない。普段から自分の隣にいて、まったく了解不可能ではないけれども完全にその「内面」を理解することができないようなものに対する「恐れ」を抱かないような能力のことだ。

の部分で、
確かに、コミュニケートできないこと、という事態には「相手への恐れ」という成分も含まれてはいるのだけれど、
もうひとつ、たとえば「普通に挨拶ができない、普通に会話ができない」という事態は、【相手‐に‐対する】ものとは種類の異なる「恐れ」ないし、【自己‐への‐関心】のような成分があると思うのだよ。

問題を再度明らかにしたい。
ある雑誌で、東工大の就職対策が紹介されていた。曰く:ある非常に優秀な学生が、就職が決まらない、という事態が発生した。面接でどこでもおとされる、というのだ。大学側は、理系学生のパーソナリティを考慮・把握しなければならないと考えた。そこで、学生個々人のパーソナリティに応じた就職の「斡旋」を行うことにした。かくして東工大の「就職問題」は改善された。

ここで「改善」されているのは就職できるかできないかという問題だけであって、コミュニケーション問題の解決ではないのは明らかなんだよね。

就職できて、飯が食えて、生きていくことができれば、とくに満たされないということはない、「コミュニケーションが苦手」(コミュ苦?)という程度であれば、コミュニケーションの問題は発生しない。

問題は、「就職なんてどうでもいい、生きていけなくてもいい、ただ、人と挨拶をかわしたり、会話を楽しんだりしたい」という欲求が満たされないとき、いったいどうしたらいいのでしょうか。ということなのだと思う。

ニューヨークのビジネスマンは、パワー・ランチで商談を行ったりするよね。そのさいコカインをキメて商談に挑んだりするのが慣例になっている。コミュニケーションは面倒なことだからね。コカインでもキメなきゃやってられない。コカインは胃に食べ物が入ってきてもOKだから、うってつけだ。かくしてコカインは「ブルジョワ・ドラッグ」として、イギリスの労働者階級からは蔑まれた。

ぼくはアンフェタミン覚醒剤)の合法化には反対だ。依存性が高いから。しかし日本では、実質的に、アンフェタミンなしに「やっていけない」生活様式(日常!)は広く蔓延している。

医療では、【ベンゾジアゼピン(BZP)+SSRI認知行動療法】というセットが、一部では定番となっている。が、確実ではないだけでなく、そこに行き着くことができる(担当医が「このセットがこの患者には適している」と判断し、このセットの療法を処方してくれる)ケースが稀だという問題がある。たぶん、BZPを過剰に投与していれば、日常生活はなんとかなる患者が多いため、「精神科医が」嫌っている心理療法を避ける口実になっているのではないかと思う。憶測だけど。