2005年度「三田社会学会」

こんな感じで。

  • 2005年度「三田社会学会」大会プログラム
  • 日時:7月9日(土)13時30分?17時50分
  • 会場:慶應義塾大学三田キヤンパス西校舎512・513番教室
  • 受付:13時00分より(大会参加費はございません。受付にて本年度会費を申し受けます。)
  • 自由報告……13時30分?14時30分
  • シンポジウム……14時50分?17時50分
    • 「子どもたちと他者 ―コミュニケーションの変貌と現代社会―」
  • 報告者

新しい知見が得られたとか、方法論的に鋭いものがあったとか、分析が説得的だったとか、そういうことはなかったのだけど、「いま世間はこうなってるんです!言説」を社会学者はなぜだか伝統的にヤリタガリーだったわけで、テーマに即してもそういう「こうなってるんです」みたいなことは宮台真司なり辻大介なり東浩紀なり北田暁大なり鈴木謙介なりといった人たちがやったほうが(敬称略)断然首肯性が高く一部の消費者層に消費されやすいわけだけれど、三田社会学会のようなローカルな同窓会的集まりで、それぞれの主観で好きなネタを持ち寄って好きなことを言いっ放しにする、というのはそれはそれで面白かった。意義があるかどうかは別として。

レジュメをゲットして、報告者が思い入れを持っている参考文献を知るのもまた/がもっとも意義深い。わたしにとっては。

古賀さん

ベネッセの第1回子ども生活実態基本調査で得られたデータ(有効回答数が14841件なので、この分野の調査では、たぶん最大規模)をかんたんなクロス表で分析。変数はPC使用頻度(家庭・学校)、携帯使用頻度、性別、学年(小・中・高)、学校段階(成績・高校ランク)、地域、階層(ただしPCが家にあるかないかという変数を階層変数として使っているようだった)、その他。
ベネッセの速報は↓。7月に分析報告が出るらしい(書店では入手不可)。
http://benesse.jp/berd/data/index.shtml#kodomoseikatu1
古賀さんの報告はとてもシンプルなクロス集計なんだけど、シンプルなだけに歴然としたクラスターが目に見えて、興味深い。もちろんジェンダー変数、学年変数は強い有意性をもっているのだけど、成績・高校ランク変数にかなり強い有意性があったのが面白い(低ランク「多様校*1」の女子が携帯使用頻度が高い)。それと地域差。地方でランクの低い学校ほどコンピュータリテラシー教育を熱心に導入しようとしている、とのこと。これは当然といえば当然で、ランクの低い「多様校」には「情報科」などがあるし、商業高校や工業高校もPC使わずに授業やるわけがないから、その辺を分析に加味しないのはまずいだろうと思った。
それとベネッセのwebで「速報版」pdfがダウンロードできるのだけど、即購入ができないのが難点(ただいま問い合わせ中)。
それともひとつ言うと、今後、計量調査は、2次分析に使えるように(分析ではなく)データを公表していなければ価値がない、というレッテルを貼るようにしましょう(笑)。いや笑い事じゃない。>調査屋さん
シンプルなクロス表とパワーポイントの高橋メソッド的使用という、学会発表の見本ですな。

小谷さん

クウガ、アギト、龍騎に言及。あいかわらず子どもに見せたくないテレビ番組は「クレヨンしんちゃん」だが、しんちゃんのやってることはせいぜいケツ出すぐらいの他愛もないこと。妊婦を殺すクウガの残虐シーンのほうがよっぽど過激だが、むしろクウガにはまってるのは新人類世代の母親たち(イケメン俳優とヤオイ系サイト)。
昔の「悪」は宇宙からの侵略者で、ドイツ風の名称を持つ。地球征服という明確な目的を持つ。クウガの敵役はUnknown(未確認生命体)のグロンギ族で、長野の山中に潜伏(殺人の目的は不明)。彼らの話す言葉の文法はウラルアルタイ語族(小谷さんの奥さんが調べたらしいw)で、アジア風の名称を持つ。内なる他者への恐怖感が投影。石原の三国人発言。
小谷さんの報告で主要ネタ文献となっていたのが中西新太郎。「ユースフォビア」(おお、なんとキャッチーな!)。そこから若者を「凶悪なモンスター」とみなす世相に話題を接続。治安を脅かす「酒鬼薔薇世代」(で、ちゃんとここで『反社会学講座』に言及)。山田昌弘の「パラサイト・シングル」は日本経済を脅かす「敵」として帰属処理する倒錯だ!(おっしゃるとおり!)コメンテイターからは「宮本みち子らの実証的な反証も参照せよ」と。しかし厚生労働省はいまだにフリーター・ニートを日本経済にとっての脅威とみなす政策をとっており、山田の加害責任は大きい(おっしゃるとおり!)。
最後の政策提言(?)ぽいところはいまいち。本質主義的な前提(「やおい」「ボーイズラブ」は生殖からの逃走だとか、トンデモ発言多し)も受け容れられないけれど、キャッチーな報告の見本を見せていただきました、という感じ。

若者たちに何が起こっているのか

若者たちに何が起こっているのか

仕事のなかの曖昧な不安―揺れる若年の現在 (中公文庫)

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櫻井さん

《ゴフマン的人間=演技過剰の子どもたち》から《演技過少の子どもたち》というキャッチーなストーリーのみ。これも「発表」の見本。
しかしまあそれ以外に見るべきところはなかった。そもそも「近代(化)」という概念を150年ぐらい前の文脈でしかとらえていないし(150年前なら確かに「演技過少」だとまずいとは思う)、「社会」を空間的概念で定義するのがそもそも間違い(だからLoflandはクソつまらんし、だったらルーマンを引用するなよ、と言いたいがルーマンの読み方も根本的に間違い)。結論も(というか前提が/準拠問題が)公共性を立ち上げるには!みたいなヤマワキ[daisensei]みたいなところにあって、オヤジくさい。
利得があるとすればゴフマンのドラマトゥルギー・アプローチの「過渡的近代性」はこういうところにあるのだろう、という目星をつけさせてくれたところか。

A World of Strangers: Order and Action in Urban Public Space

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公共性の喪失

公共性の喪失

*1:進学校じゃなくて商業科とか家政科とか