園田浩之、2001、「行為としてのフーコー――構築主義/言説分析/オートポイエーシス――」馬場靖雄編『反=理論のアクチュアリティー』ナカニシヤ出版

反=理論のアクチュアリティー

反=理論のアクチュアリティー

特定の物語=経験の組織化は、みずからを根拠づけるためコミュニケーション・プロセスにおいてその基底にあるパラドックス(究極的な根拠づけの不可能性)を不可視化=脱パラドックス化するように作動する言説的実践である。物語論は、問題的な言説の作動を実際に変更するためにこうした脱パラドックス化のポイントを突くことで物語を解体=再構築するが、このパースペクティヴからすれば構築主義的説明もまたひとつの物語である(註5)。〔167〕

(註5)〔……〕説明の「自明さ」はコミュニケーションの地平において「社会的に」達成される。うまくいった物語化=説明という行為は、観察者から見たときの「脱パラドックス化」である[浅野 1997]。

言説分析を頻繁に接続=回収してきた歴史社会学が構築プロセスを差し戻す「歴史」そのものに対してともすれば無批判になりがちであるのに比べ、物語論はむしろそれをこそ主題化しようとする。安易な言説分析は「フーコー的な」シナリオを最初からコンテクスト化しておき、そこに微細なものの構築についておびただしい記述を集めていく。この予定調和がフーコー主義社会学と呼ばれ、歴史主義的な知識社会学と大差のないアウトプットが産出される。〔168〕

  • 3 系譜学はどこへ遡及するのか

フーコーの系譜学は非歴史的に見えるものを「歴史化」する実践ではあるが、その見かけに反して歴史(学/主義)的思考ではない。歴史化することは決して歴史学化されることではない。〔174〕

系譜学はひとつの歴史記述として成立するが、歴史主義的説明が前提とする因果的時系列=歴史というコンテクストと、そこに事前/事後を判別して物語る「歴史的観察者」そのものを突く。法の前/後を判別し接続する観察者の言説は、透明なものではなく特定のプロットによって法の生成を正当化する実践である。ニーチェフーコーの系譜学は、法の前へではなく法の前/後を接続する歴史主義的思考そのものの前へと遡及する。系譜学的脱構築は、たとえ構築の動的な過程を指摘する言説であれ、(1)それらが差し戻される社会=歴史というコンテクストの同一的で安定した全域性への信憑と、(2)それを観望している観察者(すべてを透明に見通し、説明してしまうかのような審級)を素朴に固定する思考への批判である。歴史性の批判はまず歴史学/主義的思考の批判として作動するのである。〔175〕

歴史の観察は、すでに決定された過去の解釈というより、歴史的事実そのものの産出的作動である。歴史的観察は行為する観察システムとして見出され、もはや「歴史」に外在するものではなくなる。
歴史的観察者を特権化し「歴史」そのものに対して外在化させてしまう思考の前提が断ち切られたところで系譜学はひとつの製作となる。系譜学的脱構築は歴史主義ではなく、また歴史記述の不可能性=無根拠性に立ち止まる懐疑的反省ですらない。それはみずからをひとつの産出的作動として位置づけ、歴史主義的説明と歴史的観察者そのものに対する認識論批判を伴いつつ、それらが決して疑わない透明な「展望」を断ち切ったところから歴史を複数化していく。〔179〕

しかしフーコーへの依拠は、新しい認識論的基盤、「権力によって言説の作動を説明する」観察者のフォーマットとしてフーコーの孕む反理論的/反概念的な作動を弱体化させがちである。〔183〕

言説分析は、構造へと基礎づけるように出来事を説明することではない。特定の政府機関や法制機構は、作動が構造化し安定化したものではあるが、フーコーは、そこから権力の本質を引き出す発想を批判する。作動の終端形態(formes terminales)/制度的結晶(cristallisation institutionnelle)に根拠を見出す思考、それは結果を本質と見てしまう観察者の錯誤である[Foucault 1976: 121-122]。〔187〕

  • →重田(1999)
  • →佐藤(1998)
  • 1970「劇場としての哲学」
  • 1971「ニーチェ、系譜学、歴史」