研究会:『社会の社会』

はしがき〜1章1節。AKHR試訳読みやすい。

Die Gesellschaft der Gesellschaft

Die Gesellschaft der Gesellschaft

  • はしがき
  • 第1章 社会システムとしての全体社会
    • 1 社会学における全体社会の理論

【以下自分用メモ】

  • 69年時点で《プロジェクト名:全体社会の理論/所要期間:30年/所要経費:ゼロ》と考えるのはよいが、《〔90年代に〕……当時私の女性秘書が退職したにもかかわらず、後任の充当が何ヶ月にもわたって滞っていた。このような状況の中で私に仕事の機会を与えてくれたのはレッチェ大学だった。私はプロジェクトと草稿を携えてイタリアへと飛んだ。……ようやく新しい秘書が斡旋されてきたおかげで、ビーレフェルトにおいてその仕事を進めることができたのである》って、どこが所要経費ゼロやねん。
  • 1節は社会学説史!みたいな感じで面白い。ぼくが「学説史」の授業を担当したらここをネタに使う。
  • メアリー・ヘッセ。邦訳は在庫なし。

科学・モデル・アナロジー

科学・モデル・アナロジー

ヘッセ知の革命と再構成

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  • GHミードへのかなり好意的な言及。《社会行動主義》。Gesammelte Aufsätze Bd.1所収論文の邦訳は?

生成―概念をこえる試み (叢書・ウニベルシタス)

生成―概念をこえる試み (叢書・ウニベルシタス)

  • ディスカッション中に話題になった「そもそも《全体社会の理論》は必要なのか?」という提議に、ぼくなりに「こんなことかな〜」と思うところはこんなとこ:

法システムは社会システムのサブシステムである。それゆえふたつのシステム・リファレンスがつねに作用している。すなわち、全体としての社会のそれと、法のそれである。

法は社会においてのみ可能であるので、法システムのすべてのオートポイエティックなオペレーションはまた、常に社会のオートポイエーシスの継続である。ひとつのオペレーションから次のオペレーションへの規範的条件の移転もすべて、つねにコミュニケーションである。法は、化学的なオペレーションのモードも、心理的なそれすらも、使用することはできない(もちろんそのことは、それが化学的あるいは心理的結果を伴うことを排除しない)。これは、次のことを意味する。一方では、可能なコミュニケーションの社会的制限にそれは適合しなければならない。それゆえ、例えば言語を正確にあるいは少なくとも分かりやすく使用しなければならない。他方では、コミュニケーションはまた、現実の、社会の構成物が法へと媒介される方法である。法は、「女性」「シリンダ・キャパシティー」「住民」「タリウム」のような言葉が、法の内部でも外部でも十分に一貫性をもって使用されているかどうかということに関わる必要もなければ、関わることもできない。その程度まで、それは、コミュニケーションによるコミュニケーションの社会的再生産のネットワークによって維持されている。女性やその他のものが実際に存在しているかいなか、といった問題が生じたとしたら、それらは脇にどけられるか、あるいは哲学へと差し向けられうるだろう。
(1988, ‘Closure and Openness: On Reality in the World of Law’, in Teubner, Guntner (ed.) Autopoietic Law

  • つまり、「全体社会」と訳語のレベルで言うときの「全体」は、この世に生ずるあらゆるすべてのコミュニケーションの総体・を・〈統一〉としてあつかう、という意味ももちろんあるのだけれど、それはいわゆる言説分析をめぐる一連の議論*1でいう「社会の全域性」のようなものを意味するというよりは、AというサブシステムとBというサブシステムがあって、あるコミュニケーション財をAがあらかじめ構成したのではなく(法システムがタリウムを、タリウムがこの世に在らしめられた時から構成しているわけではないように)Bが構成したものであるようなときに、「全体社会」はA以外のシステム(このばあいB、あるいは「Aではないもの」)、という程度の意味になるのではないか。
  • つまりA+B+C+D+……と加算していっても全体社会にはならない(むしろそう考えたとき「全体社会」は余剰概念*)
    • Aは「A」だけでなく「A+{Aでないもの}」にも準拠する
    • 「A」+「Aでないもの」=全体社会
    • 「A」と「A+{Aでないもの}」への「ふたつのシステム・リファレンス」を取り扱う場合、たとえば「(全体)社会のA(というサブシステム)」という議論が必要になる
    • ところでAやBやCや……は、それ自身だけでなくそれ自身でないものにも準拠するのだが、この「でないもの」との関連でそれぞれのサブシステムは在る。
  • と、ここまで書いてきて、自分が何が言いたいのかわかんなくなった。ゲゼルシャフトは余剰概念だ、っていいたいのではないよ。「コミュニケーションは〈出来事〉で、単一のもの(統一)だ」ってルーマンは明言しており、出来事性についてなんか言ってくれているのだと希望します。

 *ジジェク

ある中立的な哲学の観念があって、それが分析哲学とか解釈学とかへ分割されるというのではない。ここの哲学はすべて、それ自身とその他すべての哲学(に対する見解)を包括している。もしくは、ヘーゲルが『哲学史講義』で述べたように、すべての重要な哲学はある意味では哲学の全体である、つまり、〈全体〉の小区分ではなく、ある形式を用いて〈全体〉そのものをとらえたものなのだ。したがって、これは、ただ〈普遍〉を〈特殊〉に還元するということではなく、むしろ〈普遍〉が余剰であるとでも言うべきなのだ。一つの〈普遍〉がすべての特殊の内容を包括するのではない。なぜなら、一つ一つの〈特殊〉がそれ自身の〈普遍〉をもっているからだ。つまり、各々が、全体の領域を見通す特定の視野を有していることになる。
(『快楽の転移』)

快楽の転移

快楽の転移

*1:遠藤知巳vs.赤川学@『理論と方法』のような